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過去の事件

「男の部屋ってこんな感じなんだな……」  省吾はポツリとそう呟く。錦はそれに応えることはなく、スーツのジャケットを脱ぐと、他の物と同じようにそれをカーテンレールに並べた。 「なあ、一つ聞いてもいいか」  錦からの問いかけに、省吾は腕時計から目を離す。 「前の学校で起こした事件。お前教師を殴ったんだろ。なんでそんなことしたんだ」 「……んだよ。急に」  教師である錦は当然自分が過去にしでかしたことを知っている。だが今更それを蒸し返されるのは省吾にとって気分の良いものではない。 「教師殴って退学になったやつを任されて、正直最初は俺も怖かったよ。いつ殴りかかってくるのかって毎日覚悟を決めていた。でも態度はどうであれ、拍子抜けするくらいお前は普通に過ごしているし、正直とても少年院に送られるような事件を起こしたやつには見えない」  省吾は奥歯を嚙み締めたまま、錦をジッと見る。 「特に最近、お前を見ていると違和感を覚える。屋上であの時、俺を殴り飛ばしてもおかしくはないのに、お前はそうしなかっただろ。悪ぶっているし正直バカだとは思うが、性根は悪いやつじゃないと思った。問題を起こした背景に、余程何かあったんじゃないかと思ってな」  錦がまっすぐ省吾を見ている。教師である錦ではなく、一人の大人として錦がそこに立っていた。  教師である錦に自分の過去や本音を打ち明けるつもりはなかった。だが自分を生徒でなく、一人の個人として接してくれる錦という大人になら、話してもいいと思う。 「俺、目つき悪いだろ。あんまり話すのも得意じゃないし、言葉より手が先に出るタイプだった。子供の頃から喧嘩ばっかりで、そりゃ手のかかる問題児だ。でも最低限の良識ってのはガキなりにあったつもり。……でも前の学校で教師を殴ったときは、そんな良識も吹き飛んじまった」  問題の教師は省吾の担任だった。錦より少し年上だが三十代とまだ若い男で、ユーモアのある性格が生徒の間で親しまれる、評判の良い教師だった。 「入学したての頃って保護者が学校に顔出す機会も多いだろ。俺の保護者って母親しかいないから、当然母さんが学校に来てさ」  省吾の母親は若くして省吾を生み、年齢はその教師とあまり変わりがなかった。女手一つで省吾を育てていることもあり、顔に疲れが滲み出ていることもあったが、それでも省吾の目から見ても綺麗な人だった。 「学校から帰ってきた母さんがいつも以上に疲れた顔をしていたのが気になったんだ。俺のことで担任から母さんに度々電話が来てるって知って、俺は何もしてないのになんでだって腹が立った。それで担任に詰め寄ったら……俺は別に関係なかったらしい」 「どういうことだ?」 「母さんに……自分の女になれって迫っていたんだ。そしたら俺が面倒ごとを起こしても根回ししてやるし、成績にだって手を加えてやるって。そっからは正直、あんまり覚えてない。頭に血が昇って、気付いたら相手は顔面血だらけで床に突っ伏してた」  錦の顔が歪む。 「なんでそれを言わない。言えばその教師が責任を問われるし、お前は退学にならなかった」 「言えるわけねーだろ。言ったら母さんは自分を責める。自分のせいで俺がこんなことしたってな。それにその糞教師、結婚して子供が生まれたばかりだった。それなのに生徒の保護者に手を出そうとしたなんて知ったら家族が壊れる。……子供が可哀そうだ」  父親がいない寂しさはよく知っている。自分が我慢すればそんな思いをする子供が減らせるのなら、それに越したことはない。 「だからって黙っていたら、お前だけの責任になる」 「いいんだよ、それで。元から問題児だし、結局はその後にもっとデカい傷害事件を起こしてる。俺の評判なんて最初から最低なんだ。それ以上落ちようがない」 「傷害事件……。確か別の高校に通う学生と、街中で大喧嘩したってやつか」 「そう。俺もそれなりに怪我したけど、骨を折ったり大怪我したのは相手の方」 「喧嘩にしては行き過ぎだな」 「今となっては俺もそう思う。でもあの時の俺は退学したばっかで、どうしようもないほど気持ちが荒んでて自分でもブレーキが利かなかった」 「相手は中学時代の同級生だって聞いたぞ。お前だけが悪い事件じゃないとは聞いたが、なんでそこまで暴力をふるう必要があったんだ」 「別に……今となってはくだらねぇきっかけだよ」  高校を自主的に退学して、暇を持て余した省吾はその日街に出た。特に行くところもやることもなかった省吾は、ただぶらぶら歩くだけの虚無な存在だった。  日が暮れてきた放課後と呼べる時間、省吾は中学時代の同級生とすれ違った。真新しい制服に身を包んだかつての同級生は、同じ制服を着た女子学生を連れて堂々としていた。ほんの数か月前まで自分と同じ制服を着ていた人間とは思えないほど、省吾の目には大人びて映った。 「あれ、速水じゃん。平日なのになんで私服? あー、あの噂ってマジなんだ。入学して速攻で退学になったってやつ。そういうとこ、ほんと変わらないな」  明らかに省吾を蔑む物言いに、腹立たしさを覚えた。横にいる初対面である女学生すらニヤニヤと馬鹿にした笑みを浮かべている。 「俺らも義務教育が終わってそろそろ大人の仲間入りよ? ちょっとはそのすぐに手の出る癖をなんとかしないと。まあ言って分かるような奴なら、すぐに退学なんてならないか」  数か月前まで自分と同じ立場だったやつが、なぜか偉そうに自分を説教している。その状況の意味が分からず、ただ怒りの熱をドロドロと腹の奥に溜めるだけだった。 「ほんと、お前って人間のクズだよな」  ぷつりと理性の糸が切れたのは、その言葉がきっかけだった。 「あとはあんたも知っている通り、大立ち回りして相手を病院送り。人目のつく場所でそんなことやらかしたから警察呼ばれて仕舞いだ。正直ガキの頃から警察呼ばれたりしてたから、年少送りも当たり前」 「煽られて喧嘩して、バカか、お前は」 「そうだよ、馬鹿なクズ。自覚はある」 「クズとは言っていないだろ」 「……まあ、あんたと出会った頃には俺も少しは改心したっていうか、少しは大人になったからな。あんたの前じゃクズも鳴りを潜めたかも」  母を散々泣かせて、自分の過ちに気が付いた。それからは何があっても手は出さないと誓っている。万が一そんな機会が再び訪れたとしても、誰かを傷付け母親を悲しませるくらいなら、自分が傷付いた方がマシだった。だから錦にあんなことをされたとしても、抵抗できなかった。自分の抵抗が錦を傷付け、ひいては母を苦しめるかもしれないと思った。 「俺が年少送りになって、母さんは勤めていた会社に居られなくなった。住んでたアパートも引っ越さないといけなくなって、大怪我させた相手に治療費と慰謝料も払った。それに加えて高校も入り直したし、俺のせいでどんだけ金がかかるって話だよ。ただでさえ貧乏なのに」  だから小遣いは貰わない。自分のものなど最低限で充分だ。 「バイトしようとしたこともあるけど、うまくいかなくて。生意気だって絡まれてクビになっちまう。客と揉めるのは避けたいし、それならバイトは諦めて卒業までは大人しくしとくかなって。家を出る歳になったら、そっからは全部俺の責任だろ。どうなるかは分かんねぇけど、最低限の金稼いで生きていければそれでいい」  だから進学はしない。これ以上金銭的な負担を母に強いるわけにはいかなかった。そもそも進学したところで自分がまともな仕事に就けるとも思わない。何度も問題を起こした人間を必要とする場所などないと思った。

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