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大人の恋

 写真の中の男は良い紳士だ。だが錦の方が、もっと人目を引く。十中八九、錦の方が良い男だという人間の方が多いはずだ。 「……この人、あんたにとってそんなに大切な人だったのか」 「大学時代はその人に夢中で、用もないのによく追いかけた。教師になってからも仕事のことで相談にのってもらっていた。少しでもその人と対等になれるように、必死で虚勢を張っていたな。でも、二年前に止めたんだ」 「なんで? 好きなんだろ?」 「好きだったけど、俺がその人の側にいても誰も幸せにはなれない。俺も、その人も、その周囲も。だから自分のためにも、会わないって決めた。連絡先も消して、そこから一切会っていない」 「……なんか俺にはよく分かんねぇ」  好きで側にいるのに、自分を含め、誰も幸せになれない。そんな関係が省吾には分からなくて、ただ写真の男に心の中で問いかける。どうして錦にこんな悲しい顔をさせるのかと。 「大人の恋は、お子様にはちょっと早いよな」  錦がいつもの調子で揶揄したようにそう言った。表情もすっかり普段の錦に戻っていたが、それは相手に気を使わせてないための大人としての仮面だと省吾は気付く。気付いたが、省吾はあえて気付かないふりをした。話を蒸し返して、これ以上錦の切ない顔を見たくないと思った。 「ちゃんと片付けしないから、人に見られたくないものが出てくるんだぜ」 「それに関しては耳が痛い。が、お前が家探しするのが悪いんだろうが」 「家探しなんてしてねーよ。あんまりにもゴミが散乱してたから、片付けてやってたんだろ」  省吾はほら、とゴミの入ったビニール袋を指さす。 「なにがやるときはやる、だ。このため込み方は相当掃除してないだろ。体裁を取り繕う前に部屋をどうにかしろ、部屋を」  省吾の小言に錦は驚き、目を丸くしている。 「……意外だな。お前、綺麗好きには見えないのに」 「綺麗好きじゃない。けど、限度ってもんがあるだろ。母子家庭育ちなもんで最低限の家事はガキの頃から仕込まれてるし、家事能力に関してはあんたより自信がある」 「へぇ……。人って見かけによらないな」  関心したようにそう言った錦は、すっかり普段の錦だった。これでいい、と省吾は軽口を叩きながら胸を撫でおろす。  自分と錦の関係はこれでいい。錦の悲しい顔も、恋の話も、教師と生徒である自分たちには相応しくないと思う。何より錦の口から、好きだった男の話を聞くのも何故か複雑な気分だった。軽口を叩き合い、時に反抗し、叱責される関係が自分たちには似合いなのだ。 「で、結局風呂はどうするんだ? 入るのか?」  少し迷って省吾は首を横に振る。複雑な気持ちごと洗い流してさっぱりしたい気持ちもあったが、色々あったせいか身体が休息を求めていた。錦のプライベートな場所で裸になることも気が引ける。 「帰ってから入るからいい」 「ならもう寝ろよ。ガキが起きていていい時間じゃないぞ」  ベッドを使えと促され、省吾は戸惑った。 「……俺は雑魚寝でいい。一晩あんたに匿ってもらっているだけだし」 「ガキが遠慮なんかすんな。それに仮にも今は俺がお前の保護責任者なんだよ。風邪でも引かせたら俺が親御さんに申し訳ないだろう」 「あんたはどうやって寝るんだ」 「その辺で毛布にでもくるまって寝るよ。持ち帰りの仕事しながら寝落ちしていることも多いし、雑魚寝も慣れているから気にするな」  気にするなと言われても、やはり抵抗感がある。家主が雑魚寝すると言っているのに、招かれたわけでもない自分がベッドを使うことに気が引けた。  省吾がいつまでも躊躇っていると、錦はさっさと寝ろと、ベッドの中へ省吾を押し込む。  頭の上まで布団を被せられると、頭から足先まで錦の匂いに包まれて、省吾はなんだか落ち着かない。 「……あんた、シーツ洗ったのだいぶ前だろ」 「臭いとか贅沢なこと言うなよ」 「別に……臭いとか思ってないし」  明らかに自分ではない匂いは、落ち着かないが臭いとも思わない。ただこれが錦の香りだと、ただそれだけだった。 「さっさと寝ちまえよ」  布団の上から錦がぽんぽんと省吾を叩いた。省吾は芋虫のようにもぞもぞと動いてそれに応える。子供をあやすような錦のしぐさに、そんなことをされた記憶のない省吾は妙に照れ臭かった。  錦が側から離れていくのを感じて、省吾は掛け布団の隙間から様子を窺う。錦は照明を消すと、薄手の毛布にくるまり床に寝転がった。大きな身体を丸めて物と物の隙間に器用に入り込む錦は、本当に猫のようだ。 「おやすみ」  錦が自分に背を向けた状態でそう言った。  誰かにおやすみなんて言ったことのない省吾は、とっさに返事が出来ない。母は夜間勤務をしていて、省吾は寝る時間いつも一人きりだ。おやすみなんて言葉は、自分に縁のない言葉だと思っていた。 「……おやすみ」  布団の中で、喉の奥から絞り出すようにそう言った。錦に届いているかは分からない。だが省吾には精一杯のおやすみだった。  そこから二人に言葉はなかった。錦がすぐに眠ってしまったのかは、省吾には分からない。ただ身じろいで布の擦れる音がやけに大きく聞こえた。  落ち着かなかった錦の香りにも慣れはじめ、次第に錦に守られているような安堵感に省吾は包まれた。他人を感じて眠るというのは不思議な心地ではあったが、悪いものではない。  省吾はゆっくりと目を閉じる。もう少しこの心地よい安堵感を味わっていたいのに、休息を求めた身体は意思に逆らい、眠りに落ちようとしていた。きっと今日は良い夢が見れる。そう思っていたのに、意識を手放す前、瞼に浮かんできたのは少し悲しそうな錦の顔と、名前も知らない写真の男の微笑みだった。
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