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知らない男
「いや……課題ならとっくに終わってるんですよ」
省吾は深い溜息を吐く。
「帰ろうと思ったらあの人……錦先生に雑用押し付けられて。しょうがないから手伝ったら次から次へと雑用を増やしてくるんですよ。付き合い切れないから逃げてる最中です」
うんざりした省吾の様子に、春日部は少し同情しながらも楽しそうに笑った。
「あいつ、人使い荒いだろ。心を許した相手だと特に顕著になる」
「荒いなんてもんじゃないですよ」
外面の良い錦は頼まれたら断れないようで、細々とした雑用を一挙に引き受けていた。掃除や備品の修繕といった、一つ一つは取るに足らないまさしく雑用と呼べるものなのだが、とにかく数が多い。
「先生、課題をやらせるためじゃなくて、雑用を押し付けるつもりで俺を呼んだんじゃないよな」
そう勘繰りたくなるほど、錦の人使いは荒かった。
「まあ普段はあいつがやってるんだろうし、人助けだと思って今日は手伝ってやりな、少年」
「他人事だと思って……」
「そりゃ他人事だしな。さすがのあいつも他校の人間にまで手伝わせたりしないだろ、多分」
多分と付けたあたり、全くないと言い切れないのが少し怖い。だが自分にも春日部にもそれだけ錦は心を開いていると思うと、悪い気はしなかった。
省吾はふと、錦の家で見た写真を思い出す。写真の一枚には春日部も映っていた。とすれば、春日部も錦の好きだった男と面識があるということだ。どんな人物だったのか、尋ねてみたい気持ちが膨らんでくる。
「あの……先生と春日部さんって、大学時代からの付き合いですか」
「あいつが言ったのか? そうだよ、N大学。入ってすぐに知り合ったから、もう十年の付き合いになるな」
「その大学で、えっと……高そうなスーツ着た四十代くらいの男。多分今は五十代くらいだと思うんですけど、そういう人って……」
「あのな、少年。スーツ着たオッサンなんて世の中ごまんといる」
春日部の言う通りだ。省吾は瞼の裏に今も残る、写真の男の特徴を思いつく限り上げていく。
「紳士って感じがして、優しそうな笑顔を浮かべてる人……? でも張り付いた笑顔というか、なんか偽物っぽいんだよな。教師の面をしてる先生みたいというか」
抽象的なことしか言えないが、春日部の顔が少しずつ曇っていく。思い当たる節があることを悟った省吾は言うまいか迷ったが、決定的な特徴を口にした。
「錦先生の、好きだった人」
その言葉に春日部が顔を歪ませる。
「春日部さん、知ってるんですね。その人のこと」
春日部は大きく息を吐く。表情を見ても、春日部がその人物に負の感情を抱いているのは間違いない。その負を吐き出したような、深い溜息だった。
「なんで少年がそいつのこと知ってんだ?」
「……一晩匿ってもらったときに、写真を見つけました」
「写真? あのバカ、そんなもんまだ持ってたのかよ。未練たらたらじゃねーか」
未練という言葉に省吾の胸が痛む。悲しむ錦の顔が脳裏に横切った。
「大学の関係者の人、ですか?」
春日部は言ってもいいものかと、少し迷うように固く目を閉じ、頭を抱えた。だが結局、ここまで事情を知っている省吾に隠し通すことは出来ないだろうと、口を開く。
「N大学の谷崎って教授だよ」
顔しか知らなかった男の名前を知り、おぼろげだった男の輪郭がはっきりと見えてくる。
「少年は、どこまで二人のこと知ってんだ」
「どこまでって、先生が好きだったことくらい。好きでずっと追いかけていて、教師になってからも相談に乗ってもらってたりしてたとか。でも数年前に会わないようにしたって言ってたけど」
「……まあその通り。大体はな」
「大体って、他になんかあるんですか」
春日部の様子からして、錦の谷崎の関係が喜ばしいものだったとは思えない。飄々としたこの男が顔に出るほど誰かを嫌うのは、それなりの理由がありそうだと思った。
「少年って、なんで谷崎のことが気になったんだ。興味本位か?」
「なんでってそりゃ……」
問われて、はっきりと答えが出なかった。どうして自分は、あの写真の男、谷崎を知りたいと思ったのだろう。
写真を見て顔を凍り付かせた錦が忘れられない。省吾の知る錦は大人の余裕を漂わせた教師としての錦か、感情的でころころと表情を変える子供のような錦だけだ。そのどちらも怒ったり拗ねたりした顔は見せたが、表情を無くしたり、悲しんだ顔を見せることはなかった。自分では絶対に出来ない顔をさせた谷崎に、省吾は言い知れぬ対抗心のようなものが、あの時芽生えたのだ。そして同時に、好きだったと悲しそうに語った錦に、そんな顔をさせた谷崎を許せないとも思った。
錦を苦しませる谷崎を、省吾は腹立たしい。
「俺、頭悪いから分かんねぇけど。あの人にはいつも不敵でいて欲しいっていうか……笑っていて欲しい、と思うんですよ」
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