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偽りない気持ち

「話、聞けて良かったです」 「他には漏らすなよ。俺が錦に殺される」 「漏らさないですよ。話していいことじゃないくらい、俺にだって分かる」 「ならいいけどな。……よし、話も終わったし俺もグラウンドに戻るか」 「先生の顔、見ていくんじゃなかったんですか」 「あいつの相手は少年に任せるよ。相当むくれた顔してるから、早く逃げた方がいいぜ」 「は……?」  脱兎の如く駆け出した春日部を見て、省吾は背後を振り返った。 廊下の向こう側にブラウンのスーツを着た機嫌の悪そうな錦の姿を見つけて、思わず省吾も逃げ出したい気持ちに駆られる。だが逃げることはしなかった。錦にとって知られたくないであろう過去の話を聞いてしまった罪悪感と、過去を知っても錦への態度はなにも変わらないという自分の気持ちに向き合いたいと思ったのだ。 「クソガキ……よくも逃げたな……」  開口一番の言葉がそれか、と省吾はわずかに頬を引きつらせる。これは相当機嫌が悪い。 「先生、教師の仮面付け忘れてますけど」  教師の錦は省吾を苗字で呼び、クゾガキと呼ぶことは絶対にない。 「ここにはお前しかいないから平気だろ」 「一応学校なんだし、気は抜かない方がいいと思いますけどね」 「もし他人に見られてたら、逃げ出したお前が悪いからお前のせいだ」 「それ、支離滅裂ですって。それに俺が逃げ出したのはあんたのせい。雑用押し付けすぎ」 「しょうがないだろ。今週頼まれていた雑用、溜まっていたんだから」 「しょうがなくないですよ。あんた家事といい仕事といい、ぎりぎりまで溜め込む癖があるだろ。それ直した方がいいっすよ」 「うるさい。教師に説教するなんて百年早い」  機嫌が悪いせいで今の錦は本当に子供のようだ。呆れつつも、いつも通りのやりとりに、省吾は少し安心する。錦の過去を知ったとて、態度を変えるつもりは毛頭なかったが、無意識に変な態度を取ってしまわないか心配だった。だがその心配も杞憂だったようだ。 「さっきお前の近くに居たのって春日部か?」 「ああ、そうですよ。練習試合ついでにあんたの顔見ていこうと思ったらしいですけど、機嫌が悪そうだからって逃げていきました」 「なんだ、仕事手伝わせようと思ったのに。それで、お前らなんか話してたのか? あいつ変なこと言ってなかったよな」 「別に……雑用押し付けてきて大変って話をしてただけですよ」  省吾は平然と大きな嘘を吐く。顔に動揺を出すわけにはいかないと、冷静を装うが内心はヒヤヒヤだった。錦はそんな省吾の心の内など露知らず、関心がないように気の抜けた相槌をする。 「それよりまだ雑用残ってるんですよね。手伝うんでさっさと終わらせましょうよ」 「あ? なんだ急に。嫌だから逃げたくせに」 「逃げても不機嫌になって追ってくるから、仕方なく。このままとんずらしたら週明けに何させられるか分かったもんじゃない」 「ちゃんと理解しているじゃないか。俺だって鬼じゃないからな。仕事が終わったらジュース一本くらい奢ってやる」 「こき使うだけ使ってジュース一本って時給ヤバすぎない……?」 「うるさい。なら水道水でも飲んでおけ」  ぶつぶつ文句を言いながら歩く錦の後ろを、省吾は黙ってついていく。こんなことが錦の過去を勝手に知ってしまった償いになるのかは分からない。だが今の省吾が出来る精一杯の償いだった。  省吾は自分よりもたくましい、広い背中をジッと見つめる。羨ましいくらいに均整の取れた錦の体形は、どこからどう見ても男性らしく、その魅力に溢れていた。そんな身体の持ち主が、男に抱かれたいと思っているなんて、誰が想像するだろう。そしてその身体を谷崎が抱いたという事実を、省吾はまだ信じられないでいた。 「先生、背中にゴミついてますよ」  軽く振り返った錦は、ひとしきり文句を言って落ち着いたのか教師の顔に戻っていた。  本当はゴミなんてついていない。ついていないが、錦の背中に触れてみたくて、省吾は嘘を吐いた。  手を伸ばし、指先で錦の背中に触れる。堅そうに見えた背中は意外にも弾力があり、柔らかさを感じた。そっと触れた指先が錦の体温のせいか、ほんのりと温かい。 「ああ、悪いな」  省吾が嘘を吐いていると知らない錦は、律儀に礼を言う。省吾はそれを受け止めることが出来なくて、ただ無言で頷いた。  錦に二度も嘘を吐いた。何も話を聞いていないと言った嘘と、触れるために吐いた嘘。錦を騙しているようで、心が苦しくなる。  だがどうしても知りたかった。そして触れてみたかった。自分でも歳の離れた男の錦相手に何故そう思うのか分からなかったが、その気持ちに嘘はない。  錦に触れた指先は、時間が経ってもいつまでも温かかった。

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