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来訪

 指定の場所には女の教師が錦を待っていた。錦の姿を見て一瞬笑顔を浮かべたものの、その後ろに連れられた省吾の姿を見ると、その笑顔をわずかに引きつらせる。 「すみません。速水の進路指導がこの後あるんですが、逃げようとするので」 「い、いえ。錦先生も大変ですね」 「進路のこと意外でしたら手はかからない生徒なんですが」 「手がかからない生徒……ですか」  半信半疑な女性教師に、錦は笑顔で封殺する。意外と荒業だなと省吾は呆れるが、女性教師には効果てきめんのようだ。  ほんのり頬を染めた女性教師は、一度咳ばらいをした後、要件を思い出したように少し早口で言った。 「錦先生にお客様がお見えになっていまして」 「客、ですか?」   まいったなと錦が省吾を一瞥する。 「だから俺は進路なんてどうでもいいって」 「俺がどうでもよくないんだ。でもお前、進路指導室で大人しく待っていられるか?」 「俺は犬かよ……」  もちろん大人しく待つ気は毛頭ない。それが分かっているからか、錦は渋るような表情を浮かべ、腕を掴んだ手を放そうとしなかった。  そこに省吾には聞き覚えのない声が聞こえてくる。 「私ならそれほど時間は取らせないよ」  背中でその声を受け止めた錦は、渋る顔をそのまま凍り付かせる。腕を掴んでいた錦の手から力が抜けるのを感じ、省吾はそっと腕を振り払った。  このまま逃げてしまおうか。そう思った省吾だが、放心状態の錦の様子に戸惑いを受ける。  女性教師が「こちらです」と丁寧に声を掛け、錦の背後から姿を見せた声の正体に、思わず省吾も目を見開いた。 「急に訪ねてすまないね。君の勤め先の近くに用があったものだから」  その男の声は省吾の想像していた通り、少し繊細さを感じさせる優しいものだった。身長は省吾と同じくらいか、少し低い。錦と十センチ以上差はあるだろう。上質なスーツに身を包んでいるのは写真通りで、違う所は髪に少し白いものが混じり始めているところだろうか。だが見間違えることはない。その男の顔は省吾の脳裏に焼き付いている。突然現れた男は、間違いなく谷崎だった。  錦はぐっと奥歯を噛み締め、笑顔を作りながら振り返る。だが少し指先が震えていたのを省吾は見逃さなかった。 「お久しぶりです。谷崎先生」  錦の張り付いた笑顔は省吾の目から見ても普段通りで完璧だ。だが声がいつもより固く、緊張しているのが伝わってくる。 「わざわざこんなところまでご足労いただけるなんて、恐縮です」 「そんな大層なことはないよ。用もあったし、君の元気そうな顔も見られて良かった」 「用、ですか」 「ああ、先ほど対応してくれた女性の方にチラシを渡したんだが、うちの大学のオープンキャンパスが近くあってね。その案内に来させて頂いたんだよ」 「もうそんな時期になりますか」 「他の大学はもう少し早い時期にするのに、うちは毎回遅いね。君もそう思うだろう?」 「まぁ……学生の頃を思い出すと、時期をずらしてもらった方が色んな大学へ見学に行けたので、有難かったですが」 「なるほど。そういう意見もあるのだな」  省吾の目から見て、二人は一見和やかに会話をしている。同じ教職に就く、大人の会話だと言ってもいい。だが二人の元の関係を知っている省吾にとって、こんな会話などほとんど意味がないことは分かっていた。 「谷崎先生は錦先生のこと、すごく優秀な生徒だったって仰っていましたよ。よく記憶にも残っているって」 「いえ……ご迷惑をおかけしていたので、それで記憶に残っているんじゃないでしょうか」 「謙遜する必要はない。教師として生徒の指導も頑張っているんだろう?」  谷崎が省吾にちらりと視線を送る。錦と話をしている時は柔らかな雰囲気をまとっている谷崎だったが、省吾に投げた目はとても冷たいものだった。省吾はこの目をよく知っている。自分をゴミクズのような目で見る、多くの大人たちと同じ目だ。 「錦先生、立ち話もなんですし応接室をお使いになられてはいかがですか? 積もる話もおありでしょうし」 「え、いや……そうですね」  女性教師の言葉に、錦の歯切れが悪くなる。  錦の瞳が揺れている。指先が震えるのを隠すためか、握りしめられた手は白くなっていた。張り付いた笑顔はこんなにも痛々しく、可哀そうになるほど谷崎の出現に動揺しているというのに、どうして女性教師や谷崎はそのことに気付かないのだ。  好きで、でも妻子のために身を引いた錦の気持ちを、谷崎は知らないのだろうか。知っていて会いに来たというのなら、そんな酷いことはないと思う。谷崎やその家族、そして自分のためにも離れようとした錦の覚悟を、なんだと思っているのかと腹が立って仕方がない。  こんな弱々しい錦は見たことがなかった。自分より大人で、身体も大きい錦相手にこんなことを思うのはおかしいのかも知れないが、守ってやりたい。そう思った。自分にそんな真似が出来るかも分からないが、こんな錦を放ってはおけない。そしてそんな感情が浮かび上がることには、考えるよりも先に言葉が出ていた。

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