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自分の出来ること
谷崎が錦の前に姿を現してから、一週間が過ぎた。苦し紛れだったが大学に興味があると言った嘘が功を奏し、谷崎と錦を二人きりにすることはなんとか阻止できた。
正直、錦が動揺していたのは見ていて分かったし、そんな錦を守りたいと思ったのは事実だが、それが独りよがりでなかったのかは省吾には分からない。自ら身を引いたとはいえ、好きだった相手が自分に会いにやってきたら、嬉しいのではないか。錦の動揺は、あまりにも急過ぎて心の準備が出来ていなかったからではないか。そんなことを考え始めるとキリがないほど同じことばかり悩み、堂々巡りしてしまう。
錦の様子は一見変わらない。普段通りに授業をこなし、生徒たちと他愛のない会話をしては笑顔を見せている。だが一人になると憂いた表情を浮かべるのが、省吾はどうしても気になった。谷崎のことを考えているのは明白だった。
省吾が錦の憂いの原因をはっきりと知ったのは偶然だ。
昼休みを告げるチャイムが鳴り、省吾はいつものように屋上へと向かう。屋上へ続く扉に手を掛けようとしたとき、外で話をしている錦の声を偶然聞いてしまった。ほとんどうまく聞き取れなかったものの、この言葉だけは何故かはっきりと耳に飛び込んだ。
「あなたとは二年前に終わったんですよ」
この発言で、やはり谷崎はそういう理由で錦の前に姿を見せたのだと省吾は確信した。そして錦にとってそれは歓迎できないものであることも知ってしまった。
省吾が屋上への扉を開けると、錦は何食わぬ顔で電話を切った。
「遅かったな。前に昼飯奢れって言っていただろ。弁当買ってやったから食えよ。十代が好きそうな肉マシマシ弁当」
そう言って錦は省吾に笑いかけた。省吾が喜ぶと思って買った弁当を得意げにかざす錦の笑顔に偽りはない。だがその奥に滲む疲労感や目の下の隈が錦の苦悩を物語っていて、省吾の胸が激しく痛んだ。
どうして谷崎は錦を苦しめるのだろう。
せっかくの弁当も、そんなことを考えながらではほとんど味がしなかった。
あんなにも強く、自分を翻弄した錦がたった一人の男にこんなにも弱くなるなんて、省吾には信じられなかった。恋は人をこんなにも臆病にするのか。それとも、恋が終わったから臆病になったのだろうか。錦が何をそんなにも恐れているのか、省吾には理解できなかった。
ただ一つだけ、分かることもある。錦が谷崎との不倫を自分も周りも、誰も幸せにはならないと言ったのは真実だ。せめて錦だけでも幸せであったなら、省吾は不倫という事実を苦々しく思いながらも、何も気付いていないふりをしていられただろう。だが、錦が心から笑えないのなら、話は別だった。
錦には笑っていて欲しい。谷崎がその障壁になるのなら、それを取り除いてやりたいと思う。弱々しい錦は省吾にとって庇護の対象だった。
省吾が行動に移したのは、それから数日後のことだ。
もう一度谷崎に会って、錦にもう近づかないように説得しようと思った。考えることも頭を使うことも苦手な省吾は、そんなことしか思いつかない自分が嫌になる。もっと大人であったなら、スマートに解決できたかもしれない。だが今の自分に出来る精一杯がこれだった。
平日、普段通りに制服姿で家を出て、N大学にいく途中、駅のトイレで私服に着替える。流石に制服姿が目立つことは、ゲイバーで学習していた。
問題は私服に着替えたとしても、すんなり大学構内に潜り込めるかが心配だったが、それも杞憂に終わった。大学の出入り口付近に立つガードマンも、全生徒の顔など覚えていないらしい。呆気なく通り抜けた省吾は、谷崎の研究室を目指す。詳しい場所は分からないが、大学構内の地図ならネットで簡単に調べることが出来た。
彷徨いながらもなんとか谷崎の研究室にたどり着いた省吾は、その勢いで扉をノックする。流石に緊張していたが、ここで立ち止まっては怖気づいて立ちすくんでしまう気がした。
なかなか返答がなく不在かと思ったが、少し遅れて谷崎の声が中から聞こえてくる。省吾は自分を鼓舞するように錦の笑顔を思い出しながら、扉をくぐった。
谷崎は本に埋もれるようにして部屋にいた。この散らかり様は錦の部屋を思い出す。教員というのは部屋の片付けが苦手な生き物なのかと、省吾は呆れそうになった。
谷崎は省吾を一瞥すると、興味なさそうに口を開く。
「見ない顔の生徒だな。出席日数が足りないことへの直談判かな? 悪いが何を言われても私は聞き入れないよ。真面目に講義に出ている生徒に申し訳ないからね」
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