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対決
驚いたことに谷崎は省吾の顔を覚えていなかった。あの時、いかに谷崎は錦しか見ていなかったのかが如実に分かる。いや、そもそも自分のことなど覚える気もなかったのだろう。谷崎の自分を見る目は冷たかった。ゴミのような人間など、記憶するに値しないと思っていたのだろう。
悔しいと思うが、それは別に構わない。
「直談判はその通り。だけど用件は出席日数じゃない。あの人の……錦先生のことだ」
「錦……先生?」
谷崎が訝しんだ目で省吾をジッと見つめる。ようやくあの時錦の横にいた生徒だと気付いたのか、谷崎は面倒くさそうに溜息を吐く。
「錦くんの生徒だったな。失礼、名前を忘れてしまってね。なんだったかな」
「速水省吾。忘れるもくそも、覚える気がはなからなかっただけだろ」
「……二度と会うことはないと思っていたからね」
嘘でもN大学に興味があると言った学生に対し、随分な言い草だ。
「今日はオープンキャンパスではないよ」
「知ってる。言ったろ、錦先生のことで直談判だって。俺、話すのは苦手だから率直に言うけど、もうあの人に近づかないでくれ」
そんなことを言われると思っていなかったのか、谷崎は面を食らったように立ち尽くした。
「急になにを言い出すかと思えば」
「錦先生があんたとどんな関係だったのかは知ってる」
「彼は私の教え子の一人だ。教職に就いてからも色々相談に乗ることもあったが……」
「それは建前だろ。あんたらが不倫関係だったのは承知済みだ。それを二年前に先生の方から終わらせたのも知ってる」
「……錦くんがそう言ったのか?」
「あの人がそんな話するわけないだろ。違う筋から聞いた話だ。でもあんたの様子から見るに、嘘ではないらしいな」
涼しい顔をしているが、谷崎は明らかに動揺していた。それも当然だろう。谷崎は錦と違い、妻子の存在がある。錦より失うものは大きい。
「別にそのことであんたを脅したりしたいわけじゃない。ただ俺は、今後あの人に近付いてほしくないと思っているだけだ。そのためにここに来た」
谷崎は狼狽しながらも、鋭い目を省吾へと向けた。自分を排除しようとするその目に、省吾は一瞬怯む。
「君にどうしてそんなことを言われないといけないのか、私には分からない」
「……不倫は否定しないんだな」
「君は知っているんだろう? なら否定するのは時間の無駄だ。私は無駄が嫌いでね」
「不倫は無駄じゃないのかよ。あんた妻子がいるんだろ」
「彼との時間を無駄だと思ったことはない」
「口ではなんとも言える。不倫の時点で先生を幸せに出来ないのは分かっていたはずだ」
「……君は一体何が言いたいんだ?」
谷崎は自身の腕を組む。省吾の言葉を拒絶し、相手に圧力を感じさせる態度だ。
「私といると錦くんが幸せにはなれないと? 言っておくが私と彼の関係は合意の上だ。彼も大人として、色々考えた上で私とそういう関係になることを選んだ。君がそれに口を出すのは筋違いだ」
「でもそれは先生が二年前に終わらせたはずだろ」
「彼が勝手に終わらせようとしただけで、私はそれを承諾したわけではない」
「二年も放置しておいて今更何言ってやがる。本当に先生が好きで大切に思っているなら、連絡が取れなくなってすぐに会いに行くはずだ。それをしなかったあんたが、今更先生の心をかき乱すような真似をすんじゃねぇ」
「私が彼の心をかき乱す?」
谷崎は嫌な笑みを浮かべる。省吾はその不気味な笑顔にぞっとした。
「それは彼がまだ私に好意を抱いている証拠じゃないか」
「……あんた、随分ポジティブだな」
「それ以外に心を乱す理由があるのかな?」
「愛想をつかして離れたのに、あんたが言い寄ってくるから動揺してんだろ」
「それこそ君の妄想だな。彼がどれだけ私を愛しているか知らないだろう。私や私の妻子のことを思って身を引いたようだが、彼が私を嫌うはずがない」
「二年前に終わったって、数日前に言われたばっかだろ。ボケるにはまだ早いぜ、オッサン」
錦がはっきりと電話口で拒否していたのを、省吾は聞いている。まさかそんなことまで省吾が知っているとは思っていなかったのか、谷崎は顔を真っ赤にさせた。
「確かに先生はあんたが好きだった。でもそれは過去の話だ。あんたやあんたの妻子のために身を引いたのもその通りだと思う。でも、それだけじゃない。自分のためにもあんたから離れたんだ」
「自分のためだと……」
「あんたといても、先生は幸せになれない。それが先生も分かったから、あんたから逃げたんだよ」
それがどれだけ辛かったか、省吾には想像でしか分からない。好きな人の元から自ら去るのは、きっと身も引き裂かれる思いのはずだ。
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