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完敗

「もしあんたにちょっとでも先生に対して情があるなら、もう心を乱すような真似は止めてやってくれ」  お願いします、と省吾は頭を下げる。錦のためなら頭を下げることも、ここで膝をつくことも厭わない。錦のためなら何にだってなれる。  ずっと分からなかった感情の正体も、今なら分かった。錦に笑っていて欲しいのも、守ってやりたいと思うのも、全ては錦が好きだからだ。憧れではなく、一人の男として省吾は錦に恋をしていた。  いつからこんな気持ちを抱いていたのか。あんな男になりたいと憧れていたはずが、今ではそれも本当だったのか分からなくなる。出会った時から、もう一つの錦の顔を知った時から、谷崎との苦い恋に苦しむ錦を見た時から。省吾の目と心は、どんな時も常に錦の姿を追っていた。 「君は……君は一体なんなんだ」  谷崎が語気を荒げる。 「突然現れて、私に身を引けだと? 子供に私たちの関係の何が分かる。私といても彼は幸せになれないなら、一体なんだというんだ。自分なら幸せに出来るとでも思っているのか」    驕るなと叱責するような谷崎の言葉に、省吾は顔を赤くする。  そんなこと、出来やしないのは考えるまでもなかった。錦を包み込める大きな身体も、心の器も、何一つ持ち合わせていない。頼りにされたいと思っても、逆に迷惑ばかりかけている。省吾は自分はあまりにも未熟で、子供だと理解していた。 「っ……俺は別に」 「高校生の分際でずいぶん生意気だ。大人に庇護されているという自覚すらない子供が、言葉だけは一人前で嫌になる」 「この話に大人も子供も、関係ねぇだろ……!」 「己の行動の責任も取れないような子供の話など、聞くに値しないと言っているんだ。私が今ここで警備員を呼べば、君はどうなると思う」  省吾の肩がぎくりと震える。 「君は不法侵入でつまみ出されるだろうな。当然、君の通う高校にも連絡させてもらうよ。君の担当教員でもある錦くんは、責任を追及されるだろう」 「先生は何も関係ないだろ……! 俺が勝手に来て、勝手にやったことだ!」 「だから浅はかなのだよ。君の行動の責任は、君の周りの大人たちが問われるんだ。それすら分からなくて、大人と対等になったつもりで偉そうなことを言っていたのか?」  馬鹿馬鹿しい、と谷崎は吐き捨てた。 「私と彼のことは、私たちが決めることだ。子供に口を挟まれる筋合いはない。私たちと対等に口をききたいのなら、あと数年は待つことだ。自分の責任を取れる年齢になったなら、その時ようやく君の言葉を聞くとしよう。最もその頃私は君のことなんて覚えてもないだろうが。私と君では住む世界が違う」  分かったらさっさと出て行けと、谷崎は野良犬を追い払うような仕草で省吾を追いやった。まだ谷崎を説得出来ていないと、省吾はそれを拒む。 「俺のことは学校にチクって停学にでも退学にでも、あんたの気のすむようにすりゃいい。だから先生のことだけは、苦しめないでやってくれ……!」 「君はどこまでも馬鹿なんだな。そんなに必死になったところで、君が錦くんとどうなることもないだろうに」  谷崎は省吾を侮蔑したような目で見る。とても哀れで汚いものを蔑む目は、省吾を委縮させた。 「錦くんと君では、明らかに不釣り合いだよ」  省吾を締め出す際、谷崎はそう言い残す。目の前で閉められた扉を前に、省吾は言葉もなく立ち尽くした。  どんなに冷たい視線よりも、谷崎の最後の言葉が胸に突き刺さる。  錦と自分が釣り合わないことくらい、分かってはいた。大人と子供、教師と生徒。信頼を集め誰からの好感度も高い錦と、周囲から遠ざけられ問題児である自分。釣り合わないのは当然だ。錦が自分と居てくれるのも、自分が錦の生徒だからだと、頭では理解していた。  だがそれを他人から指摘されると、どうしようもなく胸が痛い。  大人と子供という年齢はどうにもできないが、それ以外はこれまでの自分の行いのせいでそうなった。自分が悪い。錦と釣り合う人間になれなかったのは、自分の責任だ。 「くそっ」  何も言い返せなかったことに腹が立つ。だが省吾が一番腹が立つのは自分自身だ。錦に釣り合わない自分では、錦を守ることが出来ない。好きな人すら守れない自分が、情けなくて悔しくて、腹が立って仕方なかった。  もっと早く錦と知り合っていれば、自分は錦と釣り合う男に成長出来ただろうか。もっと早く生まれていれば、教師と生徒ではなく、対等な関係を築けていただろうか。そんなどうにも出来ないことが悔しくてたまらない。だが仮に自分が望む形で錦と出会っていたとしても、自分は今と変わらず錦の隣には相応しくない男のような気がして、省吾は奥歯を噛み締める。  錦は谷崎と縁を戻すのだろうか。二年前に終わったと告げていたが、悩んでいるから苦しんでいるのではないか。  もし錦がもう一度谷崎を選んでも、省吾はそれを止めることが出来ない。そんな権利はなかった。スーツの似合う男の横に、制服姿の自分は似合わない。自分が横に並ぶよりも、谷崎が横に並んだ方が余程釣り合いがとれる。  錦を好きだと気付き、省吾は自分が弱くなったと感じた。そして錦が何にそんなに怯えているのか、少し理解した気がする。 「最低な大人だと思ってたのに、なんであんたのこと好きになっちまったんだろ」  省吾は自分に問いかける。だが答えは出ず、思い出されるのは錦の笑顔だけだった。

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