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恋でもしましたか
「北原先生……」
「いやはや、突然すみません。夕日の下で思い悩む錦先生が、あまりにも絵になったもので」
北原は錦の同僚である美術教師だった。同僚と言っても北原の年齢の方がはるかに高く、谷崎と同じくらいか少し上だろう。錦との接点は余りなく、こうして言葉を交わす機会はほとんどない。
「煙草、吸われていたんですね」
「……二年前に止めたつもりだったんですが、久しぶりに手が伸びてしまいました」
谷崎と別れたとき、錦は煙草を吸うのを止めた。止めたというより、必要なくなったのだ。自分でもどうしようもないほど悩まなければ、煙草を吸いたいとは思わなかった。
北原は錦の隣に並ぶと、見透かしたようにこう言った。
「恋でもしましたか?」
ぎくりと身体が強張り、一瞬息の仕方が分からなくなる。
「そう、見えますか?」
北原は温かい眼差しを錦に送りながら、ゆっくり頷いた。
「私も芸術家の端くれですからね。恋には敏感な方だと思いますよ。芸術の題材に恋や愛はあまりに多い」
北原は確信したようにそう言う。だが当事者である錦にはまだよく分かっていなかった。
省吾のことで頭を悩ませているのは事実だが、これは恋によるものなのか。だとすれば、自分は省吾に恋をしているのだろうか。ただ省吾に気持ちを打ち明けられてから、錦の頭の中は谷崎から省吾に全て塗り替えられてしまった。あれほど自分を悩ませていた谷崎が霞んでしまうほどに。
「自分より他人の方がよほど自分を知っているような気がします。俺はまだ自分の悩みを気付けてすらいないのに」
「気付いていないふりをしているだけでしょう。もしくは気付いてはいけないと抑制してしまっている。我々は大人ですからね。感情を表に出せないことも多い。生徒たちを見ていると羨ましくなるときがあります」
「自分の感情に直球ですからね」
だから相手の気持ちなど考えず、無責任に好きだなんて言える。打ち明けられた相手がどれほど悩むのか考えてもいない。
腹が立つ。だが同時にその直球さが眩しくもある。自分にも確かにそんな時代があったはずなのに、いつのまにか忘れてきてしまった。
「でも北原先生に恋でもしたかと聞かれるなんて思いもしませんでした。気を付けないといけませんね。生徒にそんなことを指摘されるわけにはいけませんから」
「普通の人間ならなかなかそんなこと分かりませんよ。私のような恋に敏感な人間か、もしくはあなたに恋している人間でしょうか。好きになればつい目で追ってしまいますから」
だから省吾は自分が谷崎に悩んでいることに気付いたというのだろうか。北原の理屈で言えば、省吾は勘違いではなく、間違いなく自分に恋をしている。
錦はその結論にたまらず煙草を大きく吸い込んだ。
「そういえば、百人一首でこんな歌がありましたね。忍ぶれど色に出でにけりわが恋は――」
「ものや思うと人の問うまで。……平兼盛ですか」
「そうそう。さすが錦先生。国語にはお詳しい」
北原の言葉に錦は曖昧に微笑む。北原が今この歌を思い出したということは、今の自分がこの歌に当てはまるということだ。
「隠しているつもりなのに、知らないうちに素振りに出ていたのだろう。恋をしているのかと問われるほどに。こんな意味の歌でしたね」
「今の錦先生にぴったりでしょう?」
笑顔でそう言った北原に錦はなんと返事をしていいのか分からない。
北原と居るのに頭の片隅でいつも省吾のことを考えてしまう。
生徒の一人であり、弟のように思っていた省吾が谷崎の出現で男の顔になった。動揺する自分をその背で守り、年下のくせに心配するなと言った省吾は生徒や弟ではなく、一人前の男だった。今まで誰かに守られたり、庇われた経験のない錦は、そのとき不覚にもときめいてしまった。
省吾の告白を勘違いだと茶化し傷付けてしまったが、駄目だと分かっていても、あんなに真っすぐに好きだと言われれば、嫌でも心が揺れてしまう。
省吾に谷崎と不倫していた過去を知られたくなかった。いくら好きだったとはいえ、不倫など相手の家族の心を壊してしまう最低な行為だ。それでも自分を受け入れてくれたことが嬉しくて、あの時は舞い上がった。今は後悔している。手段は間違っていたが母を守るために戦った省吾に、自分の過去の行いはどう見えているのだろうか。
自分は卑怯な人間だとつくづく思う。ここにきても自分が省吾にどう見えているかなんて体裁ばかり考えていた。
谷崎は酷い人間だ。だが自分は谷崎よりも更に最低だ。少なくとも谷崎は好きだと告げた錦を無下にはしなかった。教師と生徒という立場は同じだったはずなのに、錦の気持ちを否定はしなかった。それに引き換え、省吾の気持ちを否定した自分はどうだろうか。正面からぶつかった省吾に対し、ただ逃げることしかしなかった。いや、省吾だけではない。今まで自分に恋心を打ち明けてくれた皆に対してもそうだ。その気持ちを一度たりとも真面目に受け取ることをしなかった。自分の好きだという気持ちには敏感なくせに、他人の気持ちには鈍感であり続けた。人の気持ちをないがしろにするなと怒った省吾の気持ちが今になってよく分かる。
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