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大人と子供の境界線
自分を抱けると言った人間は、谷崎を除くと省吾だけだ。その谷崎も、自分のことが好きで抱いているわけではない。谷崎も男に興味のある男で、ただ手近にいて谷崎に好意を示したのが自分だったというだけだ。先の見えない関係に嫌気がさし、錦は自ら離れたが、二年間なにも連絡がなかったのも、他に都合の良い存在がいたからだろう。今になって接触してきたのもその都合の良い存在がいなくなったからで、そこに愛情がないのは理解していた。
錦は確かに谷崎が好きだった。自分よりも大人で、紳士といった風貌の谷崎に憧れていた。だが身体を重ねても谷崎から愛情を感じたことはなく、いつしか錦も谷崎を好きなのか分からなくなっていた。ただ自分を抱いてくれる男など谷崎以外にいるはずがないと、惰性で関係を続けていただけだ。
谷崎を悪く言うなと省吾に言ったのも、今も愛しているからではない。一度でも好きだった男を悪く言われるのは、あんな男を好きだったかつての自分を貶されているようで辛かったからだ。
自分を好きだと言った省吾の言葉は本物だ。それを錦はもう認めるしかなかった。人を本気で好きになった錦にはそれが分かる。自分に恋焦がれた目をし、抱けると言った省吾は雄の匂いを漂わせていた。全身で愛を伝えてくる省吾に、惹かれないはずがない。
錦は数日前に交わした、春日部の言葉を思い出す。
谷崎のことを省吾に話したことを電話で問い詰めると、春日部は言い訳をするでもなく、あっけなくそれを認めた。
「だってあいつ、お前のこと好きだし。お前にとっても悪くないだろ。少なくとも谷崎といるより絶対良い」
「なっ……お前、本気で言っているのか?」
「当たり前だろ」
「速水は俺の生徒で、まだ高校生なんだぞ」
「それもあと一年ちょいじゃないか。卒業したら立場なんて関係なくなるだろ」
「バカなこと言うな。速水はまだ子供なんだ。お前が谷崎のことを話したせいであいつバカな真似をして……」
錦は省吾が谷崎の研究室に無断で訪れたことを話す。
「やるなぁ、少年」
「関心している場合か! 今回は問題にならなかったものの――」
「その辺はさ、お前がうまく制御してやればいいんだよ。確かにあいつはまだガキだけど、じきに大人になる。暴走したのだって、お前が好きだからだろ? お前が側にいてやれば大丈夫だよ」
「あのな、俺の気持ちは無視なのか」
「無視してないだろ。お前だって満更じゃないくせに」
「満更じゃないって……」
「お前のダチを何年やってると思ってんだよ。あいつといると、居心地いいんだろ? どうでもいいやつが問題起こして俺に連絡入れてくるほど、生徒想いな教師じゃないだろ、お前は。あいつを押し付けられたとき、俺になんて言ったか覚えているか? さっさと辞めてくれたら楽なのに、だぞ」
錦は言葉に詰まる。かつての自分の言葉だが、改めて聞くと最低だった。
「自分の気持ちに素直になれよ。歳の差なんてお前には関係ないだろ。お前と谷崎に比べたら差はないじゃないか。谷崎と不倫してた時、年齢が気になったか?」
「いや……でも速水は生徒だし……」
「だから卒業してから付き合えばいいじゃないか。ちなみに谷崎は学生だったお前に手を出したんだぜ?」
「……それは、この立場になって考えてみれば、最低だと思うが――」
「だろ。あんなすかした態度して、あいつ最低な奴だよ」
春日部は露骨に嫌そうな声を出す。春日部は昔から谷崎を嫌っている。昔は春日部のその態度に苦い気持ちになったものだが、不思議と今はその気持ちも理解出来た。
「なぁ錦。少年が年下なのはどうにもできないことだろ」
省吾もそう言って傷付いた顔をしていた。どうにもできないことで省吾の気持ちを否定し、跳ねのけた。
「大事なのは、年齢よりも一緒に居て楽しいのか、幸せなのかじゃないか」
「……そうかもな」
省吾と一緒にいると楽しかった。気を使わなくても良い、ありのままの自分を受け入れてくれた人間は春日部以来だ。
省吾をからかった時の反応を見るのが好きだった。笑うと目を眇める癖があるのはきっと、自分だけが知っている。省吾と過ごす時間は、間違いなく錦が谷崎から離れてでも欲しかった幸せな時間だ。
「錦、少年は多分……いや絶対谷崎よりも良い男になるぜ。俺はお前より人を見る目があるつもりだ。賭けても良い」
紳士でありながらも本音を見せず、錦にも大人であり続けることを強要してきた谷崎と、ありのままの錦を受け入れ、真っすぐ気持ちを伝えることのできる省吾。どちらの懐が深いのかは一目瞭然だ。
「そんなの、賭けにならないだろ」
今はまだ子供だ。だが大人になったとき、省吾は間違いなく谷崎よりも良い男になる。錦もそれを確信していた。
錦は短くなった煙草を携帯灰皿に捨てる。認めることが難しくても、心が省吾に傾いているのは理解していた。自分が取るべき行動も本当は分かっている。大人である錦に足りないのは、一歩を踏み出す勇気だけだ。
「錦先生、恋の悩みはね」
北原が穏やかな声で、だが生徒を導く教師のように力強く、錦へ語り掛ける。
「恋の悩みは一人ではなかなか解決しませんよ。恋は一人では出来ませんから」
悩みの向こう側には省吾がいる。どれだけ一人で考えようとも、それだけは変わりない。恋の行く末がどうなったとしても、相手に向き合わない限り、終われないのだ。
「すみません、北原先生。先に戻ります。仕事を思い出しました」
「おや、仕事ですか。てっきり恋のお相手の元へ行くのかと」
錦は苦笑する。自分の言葉も、北原の言葉もどちらも間違っていなかったからだ。
「うちのクラスに無断欠席を繰り返しているバカがいまして、三者面談もまだなので保護者に連絡を取ってみます」
なるほど、と呟いた北原に錦は背を向ける。北原のおかげで少し心に整理がついた。
まだどんな態度で省吾に接していいかは分からない。だが一歩を踏み出す勇気が出た。
今は大人でも、かつては錦も子供だった。自分の感情に直球になれた無鉄砲さは忘れてしまっただけで、きっと今も自分の中に眠っている。もう一度それを思い出し、省吾と向き合おうと思った。大人と子供の境界線なんて、簡単に飛び越えてしまえる曖昧なものなのだ。
錦の足取りは力強い。憂い顔の錦公太郎の姿はもうどこにもなかった。
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