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第37話 Vanilla Sky〜Dask Till Dawn
その日Vanilla Skyにやって来たすみれは、いつもと違う雰囲気だった。薄手のサマーニットにジーンズというラフな格好で、大きめのバッグからタブレットとクリアファイルを取り出してカウンターに腰掛ける。そのクリアファイルを見て、蒼空 はなるほどと軽く頷いた。
「そろそろ何をしてる人か聞こうと思ってたけど、大学生だったのか」
「一応。なぜわかったんですか?」
「そのクリアファイル」
「ああ、これ」
「懐かしいなと思って」
「もしかして」
「俺も陽大 も君の先輩」
「ここが地元なんですか?」
「そう」
「地元の大学に行って、地元に就職したんですね」
「そういうこと」
「仲川さんはいくつなんですか」
「28歳」
「ふーん。もうすぐ30歳にしては若いですね」
「まだ20代なんだけど」
「褒めてるんです」
「ちなみに陽大も同じ歳なんだけど」
「同級生?」
「うん。高校からの腐れ縁」
「ふーん」
すみれは意味ありげに蒼空を見ると、タブレットで何やら検索を始めた。蒼空が置いたアイスカフェラテのグラスの中で、氷が軽く音を立てる。
「さて、イメージはできました。どこでやりますか?」
すみれは持ってきたもう1つの袋を椅子に載せた。
「そろそろ混雑も終わる頃だから、彼女に任せて1時間くらい休憩を取るよ。店の奥の事務室かな」
「OK。ところで、検死結果について何かわかりました?」
「今日あたり陽大が聞いてきてくれるはずだから、わかり次第連絡するよ」
「お願いします」
アイスコーヒーのグラスから滴る水滴を吸い込んでいくコースターの横ですみれはスマホを取り出し、例のアプリを開いた。
蒼空がそのサイトを見たのは偶然だった。改築する家の内装や買い足す家具などを探してサイトを見ていた時、たまたま行きついた家具を扱っている店のホームページで、その会社が雑誌に取り上げられたというブログ記事がトップページに載っていた。何気なしにそのページをスクロールしていった時、にこやかに並んで写っている社長夫婦の写真を見た蒼空の手が止まった。そこに掲載されていたのは、奥入瀬で見た、そして陽大とデートしたレストランで見かけた2人の男女だった。
蒼空がすみれにそのサイトを転送すると、すぐに電話がかかってきた。
「奥入瀬で見たのはこの人たちで間違いない?」
「ああ。そして俺がレストランで見た人と同じだ」
WestWood家具という会社の社長である西木渉とその妻凉子は、会社がレストラン業務にも力を入れ始めていることを記事の中で話していた。西木の手首にはあの時見たのと別の腕時計がはめられていたが、奥入瀬で見た男性に間違いなかった。
すみれはすぐにあおいが登録していたマッチングアプリを調べた。登録者の中で顔を出しているのは3分の1くらいで、残りは首から下や手、飼っているらしい犬など自分の顔を載せていない。名前も本名かどうかはわからなかったが、あおいをフォローしている人物をひとつひとつ見ていくと、"WW"という名前のフォロワーがいた。プロフィール写真は独特なデザインのカウンターチェアを使っている。確信は持てなかったが、西木である可能性に蒼空とすみれは賭けることにした。
「それじゃ」
「ん?」
「そろそろ始めましょう」
担当しているひき逃げ事故の捜査で鑑識課の今村から結果を聞き終わった陽大は、壮介を先に帰らせてそのまま別室へと誘導し、封筒の書類を見せた。壮介は不審そうにしつつ何も聞かずに黙って戻っていった。
「これは?」
「別件なんだ。所見を聞かせてほしい」
今村は渡された書類を眺めながら、そばの椅子を引いて座った。陽大もその隣に座る。
封筒に一緒に入っていた写真を取り出し、書類と並べて眺めた。
「この女性が渓流沿いの河原で転倒して亡くなった時の検死結果なんだけど、家族がもう少し詳しく聞きたいと言ってきて。事故で処理されて、どういう状況かだけでもせめて知りたいと」
「ここのサイン見ると、管轄が違うように見えるのは気のせいですかね?」
「違うことは違うんだが、その、関係がないわけでもなく……」
頭を掻きながら慌てている陽大の様子を疑わしそうに眺めながらも、今村は小さく息を吐いて記載されている内容に目を通した。
「パンプスの踵の折れ具合と挫創の状態の整合性が取れない。この踵の折れ方だと、体は後ろではなく横に倒れたはずです。でも後頭部の挫創は後ろに倒れてできたもの。この大きな石に頭をぶつけたんですね」
渓流のそばにいくつもある大きな石のひとつに血痕の痕がついている写真を今村が指さす。
「その横に倒れていたらしい」
「後頭部の陥没状態とこの石の形からして、ここに頭をぶつけたのは間違いないでしょう。けれど、その踵の折れ方で後ろには倒れない。ここをよく見て」
今村はパンプスが折れた踵の部分に拡大鏡を当てた。
「折れたパンプスは右足で、裂けているのは外側だから足首はいったん外側に曲がったはず。でも、骨が弱いわけでもない20代の成人女性なら、反対側の足で支えようとしたでしょう。自分でよろけたら、咄嗟に転ばないように、こうやって」
立ち上がって、右足首を外側に曲げてその様子を再現してみせる。
「もしバランスが悪くて支えきれなかったとしても、横に転ぶはずです。万に一つ、後ろに転びそうになったとしても、お尻から転倒するか両手で支えようとする。でも記載事項を見ると手のひらに目立った外傷はなく、臀部にも打撲の痕はない」
「つまり、まっすぐ後ろに倒れた?」
「これだけではそれ以上のことはわからないですね」
「そうか……」
「あ、あと」
「他にも何か?」
「首の後ろに擦過傷があると記載されています」
「生体反応?」
「そのようですね。首の後ろを細いもので強く擦ったような傷です」
「細いもの? 紐とか?」
「傷を直接見ないと何とも言えませんが、頸椎の上部に特に力がかかって擦れたような痕があると書かれています」
「擦れたような痕……」
「この検案書からわかるのはそのくらいですかね」
「わかった。ありがとう、時間取らせたな。このことは…」
「はいはい、内緒でしょ。わかってますよ」
「悪いな」
「相原元班長が犯人だと見破った都築 さんだから協力してるんですからね」
「今度奢るよ」
陽大は下手なウィンクをすると、書類の入った封筒を掲げて部屋を後にした。
「絶対似合うと思ったけど、ここまでとはね」
「早く写真撮ってくれ。咲良ちゃんに見つかったら絶対陽大に言いつけられる」
「むしろ気に入ってくれると思うけど」
「いいから、早く」
客が少ない時間帯になった頃を見計らって店を咲良に任せ、蒼空とすみれは奥の事務室を兼務している部屋にいた。スマホを片手に写真を撮ろうとしているすみれの視線の先には、彼女の手によって美しくメイクを施され、長い髪のウィッグをつけている蒼空が座っていた。
初めは姉のあおいが入っていたマッチングアプリにすみれが登録しようとしたのだが、あおいがすみれと遊びに行ったり食事をしている写真を西木に見せている可能性もある。そこですみれが提案したのが、蒼空がなりすますのはどうかということだった。
初めは断った蒼空だったが、再三すみれが頼んでくるので仕方なく引き受けることにしたのだ。もちろん陽大には言っていない。言えば確実に反対するに決まっている。
「正面だと万が一、都築さんに見つかったら確実に私が殺されるから、横顔にしよう」
「何言ってるんだよ。早く撮って」
「これ、他の男も絶対寄ってきそう」
「そんなことないって」
咲良が入って来ないかと気が気ではない蒼空の心配をよそに、すみれは何枚もアングルを変えては写真を撮ってなかなか蒼空を解放してくれない。20枚以上は撮ったのではないかという頃にようやくOKのサインが出て、蒼空は急いでウィッグを外し、メイクを落とした。
「都築さんが羨ましい」
「何言ってるんだよ」
「こんなに綺麗な恋人がいるなんて」
「約束だぞ、このことは絶対に陽大には言わないって」
「いずれバレると思いますけどね」
「時期がきたら俺から話すから、それまでは言うな」
「はーい」
「それで、登録は?」
「今、写真をアップロードしてるから、これが終わったら完成」
「それで、その"WW"をフォローしにいく?」
「すぐにフォローすると怪しまれるかもしれないから、ダミーで他の人を何人かフォローしてから」
「これでうまくいくといいけど……」
「とりあえず、やれることはやってみる」
「そうだな」
「何か変化があったらすぐに連絡します」
「当分は、そのアプリの様子を見るだけにしておこう。相手は大きな会社の社長だし、間違っても会社に乗り込むとかしないように。まだ本人と確定したわけじゃないんだから」
「わかってますよ。でも、もし姉の相手ってことが確定したら、その時は乗り込みますから」
「それも考えてからにしなって。門前払いを食らうだけだよ。お姉さんとのことをちゃんと聞くには、いろいろ方法を考えないと」
「じゃ、仲川さんも考えてくださいね」
「わかったよ」
蒼空はウィッグなどが入った紙袋をすみれに渡した。
「お姉さんのこともちろん一緒に調べるの協力するけど、大学にもちゃんと行って」
「昨日からやっと復帰したばかりだし、もう少しゆっくり時間かけてもいいでしょ」
「それは、まぁ……」
「とにかく、姉のことをしっかり調べたい。今はそれだけなんです」
まっすぐに蒼空を見つめながらそう言ったすみれの真摯な眼差しに、蒼空は小さく息を吐いて頷いた。
「わかった」
「それじゃ、また連絡します」
「うん」
カフェを出ていくすみれを見送っていた蒼空を、咲良が怪訝そうな顔で見つめた。
「店長……まさかと思いますけど」
「何が」
「あの子と……浮気してるんですか?」
「はぁ?」
蒼空は思わず片付けていたグラスを落としそうになった。
「何言ってんの、言っただろ、陽大も知ってるけど彼女のお姉さんの事故のことで相談に乗ってるんだって」
「だって、あっちの部屋で2人きりで」
「それは、店で話すわけにいかないから。それに今日彼女が来ることが陽大にも言ってある」
「だけど……」
「だけど、何」
「ついてますよ」
「何が」
「口紅」
「えっ?!」
落としきれなかった口紅が残っていたのか?
蒼空は慌てて唇を拭った。
「ち、違うだろ、これ。さっき食べたラズベリーパイのジャムだよ」
「そんなの食べましたっけ?」
「食べたんだよ、ていうかそんなことするわけない」
「まぁ、都築さんを好きで振り向かせようと必死になってたのは店長の方だし、せっかく手に入れた恋人を手放すようなことはするはずないか」
「ちょっと、誰が必死だったって?」
「だって、ただの友達に毎朝特別にモーニングサービスとか、普通しませんって」
「あれはただ、陽大の親にも頼まれてたし…」
「はいはい、そういうことにしておきましょう」
「咲良ちゃん、頼むから陽大の前で変なこと言わないでくれよ」
「変なことって?」
「だから、誤解を生むようなことだよ」
「はいはい、私も2人はお似合いのカップルだと思ってるから、そんなことはしませんよ」
からかうように笑いながら咲良は新しく入ってきた客の対応のため、レジに向かった。蒼空は大きく胸を撫で下ろし、注文の入ったコーヒーを淹れ始めた。
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