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第44話 Vanilla Sky〜Dask Till Dawn
ハンドルを握る壮介は助手席の瀬那に気をつけるポイントを延々と話しており、瀬那はいちいちそれに頷きながら一生懸命聞いていた。その光景を後部座席でぼんやり見ていた蒼空 は、夜の街を走っている自分をもう一人の自分がどこか遠く俯瞰で眺めているような感覚に襲われていた。
なぜ今、自分はこうやって女装をして相手に罠を仕掛けるような真似をして、敵地に乗り込むようなことをやろうとしているのだろう。なぜ当事者であるすみれを置いて、陽大 のみならず、壮介や瀬那まで巻き込んでいるのだろう。
軽く目を閉じると、脳裏にいつも走り回っていた父親の姿が浮かんだ。
蒼空は決して父親を嫌いだったわけではない。口にこそ出さなかったが、父として一家を支えるために汗をかきながら働く姿を、ただ心配していただけだ。寡黙な父から滲み出る一貫した正義感は尊敬に値するものだったと思う。
しかし、結局父はその仕事のせいで命を落とした。彼の働きぶりは誰もが知るところだったから殉職扱いとなったが、死亡の原因は現場に駆けつける際に巻き込まれた交通事故だ。それも、寝不足と疲れのせいで心臓発作を起こし、そのせいで亡くなった。蒼空はあまりにあっけなく逝ってしまった父親に、しかしどこかこんな日がくると予想していた自分に、腹がたって葬儀でうまく泣くこともできなかった。
ドラマや映画のように、出がけに喧嘩してそのまま会えなくなるならあの時もっとちゃんと話していればよかった、とか、お父さんに反抗したまま謝ることもできなかったのに、とか、そうやって泣き崩れることができたなら、その方がよっぽどましだった。
自分は父が亡くなる前、最後に話したのがいつだったか、どんな言葉だったのかも覚えていない。いつもと同じ日常が過ぎていき、その流れの中で確かに父と会話をしたはずなのに、それがいつだったのか、おそらくあの日だろうというのは頭にあるが、はっきりとした日付がわからないのだ。交わした言葉もこんなことを話したというのはなんとなく覚えているが、その時の父がどんな表情で、どんな口調だったかまでは覚えていない。蒼空が起きるとすでに出勤しており、帰りは夜中になることもしばしばあった。
だから、陽大が警官になると言った時に最後まで反対したのは実は蒼空だった。想いは伝えられていないけれど、それでも自分にとって大切なかけがえのない人を、父と同じように失うことだけはどうしても避けたかった。もちろん、陽大が父と同じように亡くなるというわけではない。けれど蒼空は怖かった。愛する人を失う辛さはもう経験したくない。
そう、自分は父を愛していた。あまり口数は多くなく、他の家の子どもたちのように休日に遊園地に連れていってもらった思い出もないけれど、それでも実直で、一人息子をまっすぐに見てくれていた父を、蒼空は愛していた。
不意に手の甲に冷たいものを感じ、蒼空は自分が泣いていることに気づいた。メイクが落ちると大変だと、慌てて前の座席の二人に気づかれないようにそっと涙を拭う。その時、横からすっとティッシュで頬を優しく押さえてくれる温かい手が伸びてきた。
「陽大……」
陽大は唇に指を当てると、戯れあっているように見せながら指でそっと涙を拭ってくれた。
「陽大」
「終わったら話したいことを全部俺に話せばいいし、話したくないことは話さなくていい」
「……」
「俺はどこにもいかない。いつだって、おまえのそばにいるから」
まるで蒼空の心を読んだかのような陽大の言葉にまたしても涙が出そうになった蒼空は、急いで窓の外に流れる夜景を眺めた。そんな蒼空の肩に静かに腕を回し、陽大は後ろから抱きしめるような形で蒼空の反対側の肩先にそっと頬を寄せる。蒼空は自分の肩に回された陽大の腕に手を重ね、自分を信じて愛してくれている確かな存在がいることに深い感動を覚えていた。
「絶対に無茶するなよ」
「うん」
ようやく振り向いて、心配そうにこっちを見ている恋人の顔を見つめる。
そうか、今はあの時と逆の状況になっているのか。
蒼空は軽く音を立てて陽大の頬にキスをした。
「俺が無事に帰ってくるまで、そのキスマークを消さないでいて」
「わかった」
陽大は笑いながら少しほつれてきた頬にかかる髪を耳にかけてやる。
「後ろでいちゃこらしてんの、丸見えだけど」
「うるさいな、おまえらだって運転しながら手をつないでるの見えてるぞ」
「どうせならこのまま自分がエスコートして連れていきたいけどな」
「まったくだよ……」
車は外資系ホテルの前に到着した。駐車場係が来たが、壮介はすぐに行くというジェスチャーをして車から降りると、助手席の瀬那の手を取って車から降ろした。同じように陽大も蒼空を降ろす。
四人は目で合図をし、軽く頷くと蒼空と瀬那はホテルの中へと入っていった。その後ろ姿を心配そうに眺めていた陽大と壮介は、駐車場係の視線に肩をすくめて車に乗り込み、ゆっくりと近くの人通りの少ない脇の道に入って車を停める。ダッシュボードにスマホを見えるように置き、二人は言葉もなく黙ってそれぞれの恋人を思っていた。
蒼空がスマホの画面に表示されたコードを受付で提示すると、係がエレベーターまで誘導してくれた。軽く微笑んで礼を言い、瀬那と二人でドアが開いたエレベーターに乗り込む。後からやってきたやや体格のいい中年男性が、二人をさりげなく上から下まで横目で眺める。そのまとわりつくような視線に蒼空は鳥肌が立つ思いだったが、瀬那はどこ吹く風といった表情で特段気にも留めていないようだった。
やがてエレベーターはパーティ会場に着き、同じ場所に行く客だとわかった男性が声をかけてこようとしたが、一瞬早く瀬那がさっと蒼空と腕を組んで会場へと入っていった。
「なんか、手慣れてるね」
「いろんなお客様が来ますから」
レストランでは一緒に働いている美優 目当ての客が多かったと聞いていたが、瀬那も言わないだけで嫌な思いはしてきたのだろう。
「さて……まずはターゲットを探さなきゃ」
すでにセレモニーは終わったらしく、会場は大勢の人で賑わっていた。チャリティ企画ということで年配の夫婦や企業の社長などが多く、中には若いCEOらしき男性やその秘書などもいたが、蒼空と瀬那のような若く美しい女性はそれほど見当たらず、ましてや背の高い二人は期せずして目立ってしまっていた。
「あら、向こうから来てくれたみたい」
人々の視線が集まる先に気づいたのか、西木渉が蒼空に気づいてこちらへとやってきた。その後ろ姿に鋭い視線を送っている夫人の凉子が奥に見える。
西木は妻にどんな言い訳をしているのだろうか。
「やあ、ようこそ。想像以上の美しさに驚いたよ」
「こういうとこ初めてだからすごく嬉しい。ありがとう」
蒼空はやや緊張しながらも、事前にすみれと瀬那が考えたセリフを微笑みながら言った。
「お隣の方が言ってたお友達だね」
「そう。愛っていうの」
この偽名もすみれがつけたものだ。
「愛ちゃんか。杏奈ちゃんのお友達だけあって、綺麗だね」
「私がいるのに口説くなんて」
「そうじゃない、俺は素直なだけなんだ。もちろん、今夜一緒に過ごしたいのは君だからね」
「でも、奥さんもいるんでしょ? どうやって二人きりになるの?」
「大丈夫、あいつはこの後、取引先の奥さん連中と別の会場のパーティに行かなきゃいけないんだ」
「別の会場? いつ行くの?」
「そんなに気にしなくても大丈夫。あと1時間もすればいなくなるから」
1時間……。1時間の間に凉子にトラップを仕掛けなければいけない。
「杏奈、飲み物取ってくるね」
「あ、うん」
瀬那がドリンクバーに行くのを見て、西木はぐっと蒼空に近づいてきた。
「この会場ではなかなか相手はできないが、飲み物も食べ物もたくさんあるから、お友達とゆっくり楽しんでくれ」
「ありがとう」
「その後は、俺とゆっくり楽しむ時間だってことは忘れずに。飲み過ぎるなよ」
「うん、大丈夫」
「楽しみだよ。早く君を抱きたい」
「奥さんがここにいるのに、聞こえたらどうするの」
「妻なら向こうで接待しているから大丈夫だ。だって君がこんな誘うような格好をするから悪いんだぞ」
「別に誘ってるわけじゃ……」
「悪い子にはどんなお仕置きをしようか。この前は最後までできなかったからな、その分もたっぷりと楽しませてもらうぞ。俺のアレが忘れられなくなるくらいにな。まずはこのドレスを着たままベッドに両手を縛りつけて、そうだな……下着は脱がせて、両脚は広げて縛りつけようか」
耳元で囁く西木のねっとりとした声に、蒼空は吐き気と殴りたい衝動が込み上げてきて、必死でそれを抑えていた。
「お待たせ」
シャンパングラスを両手に持った瀬那が戻ってくると、西木は瀬那のすらりと伸びた脚をじっくりと眺めた。
「三人でというのも……悪くないな」
「な、何言ってるの」
「お友達に聞いてみてくれ。嫌なら無理強いはしないよ。それじゃ、俺はちょっとあっちに行ってくる。楽しんでくれ」
西木が去ると、思わず蒼空は瀬那の肩につかまった。
「大丈夫ですか」
「胸くそ悪くてマジで殴りたかった」
「蒼空さんの口からそんな壮介さんみたいな言葉が出てくるなんて」
「あ、ごめん」
「いいえ、何だかちょっと嬉しいです」
瀬那はくすくすと笑った。
「これ、シャンパングラスだけど中身はジンジャーエールです。どうぞ」
「ありがとう」
「でも、ぶっとばしたくなる気持ち、わかります」
「だろ?」
「たぶん、二人で殴れば簡単にKOできますね」
蒼空は瀬那と顔を見合わせると、声を出して笑った。
「確かに」
「ああいう下半身の本能だけで生きてる男は、懲らしめないとだめです。でも、それがただ女の子を泣かせてるだけじゃなく、もし人の生死に関わってるとしたら、それは必ず罪を償わせなきゃだめです」
「うん」
「私は、自分が幸せになれる自信なんて全然なかった。いつだって客は美優を見てたし、私みたいな人間は、どんなに世の中が変わろうと根本じゃ理解されないし偏見を持たれ続ける存在だから、自分から幸せなんか求めちゃいけないって思ってました。でも、壮介さんはそうじゃないって言ってくれた。自分が私の幸せの先にある存在でいたいとも言ってくれました。初めは愛される自信なんかなくて怖かったけど、でも、今は幸せだって思える。私には壮介さんがいてくれてよかったって、心から思えるんです」
グラスを見つめながら話す瀬那の表情はいつものように穏やかだったが、その瞳の中には確かに愛されている女性の強さのようなものが見えた気がした。
「陽大さんの蒼空さんへの愛情も負けないくらいすごいですけど」
「そう見える?」
「知らない人が見てもわかるレベルには」
「え、そんなに?」
「陽大さんはまっすぐな人ですからね、愛してることを隠そうとしないからダダ漏れです」
「ま、それは壮介さんにも言えることだけど」
嬉しそうに微笑んだ瀬那の表情がすっと変わった。
「奥さんがトイレに向かいました」
二人の間に緊張が走る。
ごくりと唾を飲み込むと、蒼空と瀬那はさりげなくグラスを空いているテーブルに置き、凉子の後を追って女性用トイレへと向かっていった。
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