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第45話 Vanilla Sky〜Dask Till Dawn

 凉子の後を追った蒼空(そら)と瀬那だったが、トイレに行く途中で招待客に捕まって立ち止まった凉子を見て、慌てて向きを変え、その場でお喋りをしているように装った。オーナーとしてはゲストは無下にできない大切な客であるため、凉子もにこやかな笑みを浮かべながら丁寧に応対している。  「……あの男の人、全然気づいてる感じじゃなかったですね」  その様子を観察しながら、瀬那が小声で言った。  「気づくって?」  「そのネックレスです」  瀬那はさりげなく蒼空がつけているネックレスに目をやった。あおいがつけていたものと同じデザインの偽物のネックレスだ。  「確かに……動揺してる感じもなかったし、気づいてなかった感じだ」  「自分が何を贈ったのかも覚えてないんですね」  「もしかして、贈ったことすら忘れてるのかも」  「知れば知るほど最低な男ですね」  「でも、そうなるとなぜネックレスが取られたんだろう。自分で外したなら首に擦れた痕はつかないだろうし」  「そこですよね……」  話しているうちに客がお辞儀をして去っていき、凉子はそのままトイレに向かった。蒼空と瀬那も急いで後を追う。トイレに入った凉子を確認し、躊躇なく入ろうとする瀬那だったが、何しろ女性用トイレに入ったことなどない蒼空は一瞬足を止めた。そんな蒼空に腕を絡め、瀬那は半ば強引に引っ張っていくようにしてトイレのドアを開けた。  中は瀬那の下調べ通りに個室が二つあり、二人が中に入ったのと同時に凉子が左側の個室のドアを閉めたのが見えた。いくらすみれのためとはいえ、さすがにここで凉子が用を足す音を聞くのは憚られ、蒼空は慌てて蛇口の下に手を差し出すと水音が響き渡った。  瀬那は肩をすくめるとバッグから化粧品を取り出し、メイクを直し始めた。そして、ごく自然な流れで会話を始める。  「あのおじさんがパパなのね」  「え?」  「さっき話してた人よ。杏奈のこと、すごくやらしい目で見てたわよ」  「そ、そう?」  「まぁでも確かにイケおじだし、悪くはないかも」  「でしょ」  「それに何でも買ってもらえるんでしょ?」  「そうそう」  ぎこちなく短い返事しかできない蒼空に対して、瀬那はよどみなく会話を続ける。  これは壮介相手にかなり練習してきたな。どうりで疲れた顔をしてたわけだ。  相槌しか打たない蒼空の手を掴み、瀬那は蛇口から流れる水を止めた。個室からの音も聞こえない代わりに、こちらの会話も聞こえないのでは意味がない。そう目線で訴える。  「そのネックレスも買ってもらったんでしょ?」  「あ、うん」  「ティファニーのスマイルネックレス。いいなぁ」  「よくわかるね」  「だって、韓国ドラマでヒロインがつけてて流行ったじゃん」  「あ、ああ、そうだった」  そのドラマは蒼空は見ていなかったが。  「ね、おねだりしたら何でも買ってくれるの?」  「うん、まぁ」  「旅行とかも連れていってくれちゃう?」  「そうだね」  「もしかして、奥入瀬に旅行に行くって言ってたの、あのパパと?」  「え、あ、うん」  「当ててあげる。ホテルは星野リゾートでしょ」  「そう。よくわかったね」  「めっちゃいいじゃん。羨ましいなぁ。今日もホテルに誘われてたでしょ」  「え?」  「さっき聞いてた」  「そうなの? 知ってたなら助け……」  「てか、もうヤったの?」  「え?」  「そうだよね、一緒に旅行に行くくらいだもんね」  「……」  架空の会話とわかっていても、なかなか蒼空はうまく答えることができなかった。浮気でも何でもないのに、なぜか嘘でも他の男とそういうことをしたなどと言えなかった。するとそんな蒼空の様子を察したのか、瀬那がスマホに素早く何か打ち込んでその画面を見せた。  ――陽大(はると)さんとのことだと思って答えて。  「ねぇ、おじさんとするのってどんな感じ?」  「どんな感じって……」  「教えてよ」  とっくに用は足したと思われる凉子は、なかなか個室から出てこない。物音も立てずに、じっとこちらの会話に耳をそばだてているような感じがしていた。  「教えてって……」  「たとえば、キスはどんな風にするの?」  瀬那はもう1度スマホの画面を見せる。  ――陽大さんとのことだと思って答えて。  「……最初は優しい」  「最初は?」  「キスしてるうちに、だんだんと激しくなってくる」  「止まらなくなっちゃうんだ。で、そのまま押し倒されちゃう?」  「うん」  「ベッド以外の場所だと、どこでしたことある?」  「ベッド以外……?」  「たとえば部屋のソファとか」  「……うん、ソファはある」  「あとは?」  「あとは……キッチンとか」  「ああ、わかる。あとは? お店のどこか、裏とかでは?」  蒼空の脳裏にWestWood家具店の隠し部屋でのことが浮かぶ。  「……ある」  「お店で? どんな風に?」  「あの店、なんか隠し部屋みたいなのがあって、そこに連れ込まれたことがある」  「事務所みたいなとこじゃなく?」  「ううん。たぶん、そういう部屋」  「そういう部屋って?」  「……セックスするための部屋」  「……そこでヤッたんだ」  蒼空は一瞬言葉に詰まる。実際は逃げてきたのだが、ここは凉子の動揺を誘うために嘘をつくべき場面だ。  「……うん。あそこ、ミニバーみたいなのがあって、そこのウイスキーを私の足に垂らして舐めてた。そのまま押し倒されて……」  蒼空は目を閉じてあの時の嫌な記憶を陽大との甘い思い出と入れ替える。あの日、帰ってから女装して店に乗り込んだことを陽大に怒られ、そのままシャワールームで激しく愛し合った。その時の状況を思い出しながら話を作っていこうとした時、個室の中から電話の着信音が聞こえてきた。二人は思わず口をつぐむ。  ――いったん外に出よう。  蒼空は瀬那に耳打ちすると、素早く腕を掴んでトイレから出た。そして、何気ない風を装ってまたパーティ会場へと入っていく。その後ろ姿を、ほぼ同時にトイレから出てきた凉子が睨みつけるようにしてじっと見つめていた。  マッチングアプリへの返信はすみれが常時見ていて、何か変化があればすぐにスマホで蒼空と陽大の両方に連絡をよこすことになっていた。西木が今日のホテルの部屋番号を知らせてくると、その情報はすぐに蒼空と陽大のもとへ届いた。今ごろ車の中で歯軋りしているであろう陽大を思うと、蒼空は少々申し訳ない気持ちでいっぱいだったが、おそらくさっき撒いた餌に凉子が何らかの食いつきを見せれば、この件は一気に真相に近づくはずだ。  ――気をつけろ。絶対に油断するな。 予想通り、陽大からすぐにメッセージが届いた。  「このホテルのエレベーターは部屋があるフロアしか行けないようになってるから、壮介さんがすぐに同じフロアの部屋を予約して待機します」  「満室だったら?」  「その時は警察の力を発揮してもらいましょ」  明るく言い切る瀬那の方がよっぽど自分より肝が据わってる気がして、蒼空は思わず微笑んだ。  「蒼空さん」  「ん?」  「私の考え、話してもいいですか」  「もちろん。どんなの?」  「奥入瀬での話とかここまでの流れをすべて聞いて私が思ったことです」  「うん」  「あの奥さん、奥入瀬のホテルで見かけたんですよね」  「そう」  「あおいさんが亡くなったその日、その場にあの奥さんもいたんじゃないでしょうか」  「その場に?」  「さっき、トイレで私たちが話してる間、ずっと彼女は出てこなかった。間違いなく私たちの話を聞いてたんです。旦那の新しい浮気相手の話を」  「うん、俺もそんな気がした」  「あの男性はネックレスに何の反応もしなかった。でも女は違う。浮気相手に自分の男が贈ったプレゼントを忘れることはない」  「西木があおいさんに贈ったネックレスがどんなのか知ってたってこと?」  「あのネックレス、本物はそれなりの値段がします。男の浮気を疑う妻がまず確認するのはカード明細でしょう。そこにティファニーの店で買った記録があって自分がそれをもらってないなら、それは間違いなく浮気相手に贈ったプレゼントです。きっとこういう男は浮気だって初めてじゃないはず。彼が旅行に行くなんて話すわけないから、出張だとか何とか言って嘘ついてたんでしょう。でも奥さんはそれが仕事じゃなく浮気だと見抜いた。あるいは誰かに調べさせたのかもしれない。そして後を尾けたのか先回りしたのか、いずれあの奥さんはあおいさんが亡くなった場面にいたか、あるいは夫が去ってからその場に行ったんじゃないでしょうか。そこで彼女が首につけていたネックレスを見て怒って引きちぎったんじゃないかと思います」  蒼空はあっけにとられた表情で瀬那を見つめた。  「君がそんなにすごい推理力があるなんて知らなかったよ……」  「推理でも何でもありません」  「え?」  「経験則です」  「経験って……」  「昔、似たような経験して修羅場でしたから。あ、壮介さんには内緒にしといてくださいね。私もさっきトイレで聞いたことは陽大さんに黙っていますから」  「何を?」  「家具店の秘密の部屋のこと、陽大さんにはまだ言ってないんじゃないですか?」  軽くウィンクをする瀬那に、蒼空はなぜか敗北感に似た感情を抱いていた。  「お手上げだよ……」  部屋のカードキーはフロントに預けてあるということで、二人はいったんロビーに降りた。そこでキーを受け取り、蒼空たちは再びエレベーターホールへと向かう。  「ボイスレコーダーの電源は入ってますか?」  「うん、さっき入れた。ボタンを押すだけで録音できる」  ここに来る前、陽大から録音用のボイスレコーダーを渡されていた。捜査以外の目的で会話を録音することに抵抗がなかったわけではないが、電話の相手の話を録音するのと同じ秘密録音は違法ではない。そう自分に言い聞かせ、陽大は蒼空にボイスレコーダーを渡したのだった。  「ここから先は蒼空さん一人です。本当に、くれぐれも気をつけて。何かあったらすぐ電話してください」  「うん、わかった」  エレベーターに乗ろうとした時、後ろから走ってくる足音が聞こえてきた。振り向くと陽大と壮介だった。  「二人とも、何でここに?」  「西木が部屋で待ってるってメッセージよこした。だからもう車で待つ必要はない。俺らも同じフロアで待つ」  「部屋は?」  「さっき取った」  心配そうに陽大が蒼空を見つめる。西木はここにはいないとはいえ、彼の会社の人間がそこら中にいる状況では、さすがに陽大も蒼空の手を握ることはできなかった。  「気をつけろ」  「うん」  一緒のエレベーターに乗り込みたいのをぐっと堪え、陽大は壮介たちと一緒に蒼空を見送った。おそらくエレベーターが動いた瞬間に上階へのボタンを連打しているに違いない。  蒼空はそんな陽大の様子を思い浮かべて思わず微笑んだ。しかし、エレベーターが西木の待つ18階のフロアで止まると、さすがに緊張してきて唾をごくりと飲み込んだ。  自然に、自然に振る舞うんだ。そして、なるべくたくさん話を聞き出す。あの日、何があったのか、あおいさんはどうやって亡くなったのか…。  1804と書かれたドアの前に立つと、蒼空は微かに震える手でカードキーをドアノブにかざした。カチッと音がして、ランプが緑色に変わる。そっとドアを開けると、すでにバスローブ姿の西木がにこやかに出迎えた。  「待っていたよ。さあ、中に入って」  蒼空は小さく息を吐くと、ゆっくりと部屋へと足を踏み入れていった。

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