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第16話
あの後僕たちは、ヴァレリオ以外のシーンの撮影を三人で行い、何とか無事終わらせることができた。照との演技は正直緊張したが、照はヴァレリオを殴ってしまったことを僕に謝罪し、ひどく後悔しているのが伝わった。『謝るならヴァレリオにしてね』と、僕はそう照に伝えると、照はバツの悪そうな顔をしながら『分かった』と言った。
僕は照の顔を見ながら、これも全部僕のせいなのだと思うと、悲劇のヒロインぶるつもりはないが、胸がとても痛くなった。
着替えをし、メイクは落としたが、今日はいつもよりも疲れてしまい、自分の部屋に戻ったら夕飯も食べず、風呂にも入らずすぐさま寝てしまいたかった。でも、部屋にはヴァレリオがいるし、傷の具合も気になる。またそれ以上に、ヴァレリオが医務室で、怪我をしたのは自分のせいだと言ったことが気になる。きっと、ヴァレリオは僕を好きだから、照に殴られた事実が広まることを望んでいないはずだ。下手にそれが広まることで、もし星同士の問題にでも発展してしまったら、僕との時間を奪われることになる。
一応ノックをしてドアを開けると、僕は『ただいま』と部屋に声をかけた。
「おかえり」
間髪置かず返事をされ、僕はドキッと心臓を鳴らした。でも、室内を見渡してもヴァレリオの姿はない。
「あれ? ヴァレリオ、どこ?」
僕はそう言って、部屋をぐるっと見渡した。すると、バルコニーのドアが開いていることに気づいた。僕はバルコニーに近づき外に目を遣ると、バルコニーの手すりに、優雅に片肘でもたれ掛かるヴァレリオと目が合った。
「やっと帰ってきたな。おかえり、摩央……」
ヴァレリオは真っ赤な夕焼けを背にしながらそう言った。僕はヴァレリオのそのあまりにも完璧な画に思わず面喰ってしまう。ヴァレリオという男は、やはりとても高貴な身分だということを、その圧倒的なオーラから強く思い知らされる。
「た、ただいま……傷どう? 腫れ引いた?」
僕は少し委縮しながら近づくと、ヴァレリオの顔を見つめた。
「ああ。もらった薬は優秀だ。どうだ? だいぶ腫れが引いただろう? 唇の傷も、頬も痛くない……ところで、撮影はうまくいったのか?」
ヴァレリオは自分の頬を撫でながらそう言った。よく見ると、確かに頬の腫れは引いているし、唇の傷も赤みが薄くなっている。
「良かった。ホッとしたよ……撮影はね、上手くいったよ。誰かさんがいないおかげでね」
僕はわざと憎まれ口をたたいた。そうしないと、ヴァレリオの強烈なオーラに飲み込まれてしまいそうだからだ。
「はっ、先に殴ってきたのはあいつだぞ?」
ヴァレリオが心外だというような顔で、僕の目を覗きこむ。
「違うだろう。演技中になのに、いきなり照の肩掴んで床に叩きつけたヴァレリオが悪いんじゃないか……」
ヴァレリオの身勝手言い分に、僕は呆れながらそう言った。
「……ふん、そうかもしれないが、それは、照の演技がひどくリアルに感じられたからだ。摩央が危険だと俺の本能が勝手に動いた。それだけだ」
確かにヴァレリオの言っていることにも一理ある。僕もあの時照から脅威を感じたからだ。公私混同しているのではないかと疑ってしまうほどに。でもそれは、僕が常に罪悪感を覚えていることによる被害妄想なのだろう。照の演技力は素晴らしい。今回のことでそれが証明されたということかもしれない。
「照の演技力のせいかな。僕は彼に役者になってもらいたいんだよね。照ってね、凄いんだよ。初めて二人で映画を作った時にね、演技の勉強なんか何もしてないのに、すんなり役に馴染んで、きっとああいうのを天才って言うのか」
「やめろ」
「え?」
ヴァレリオはそう言うと、バルコニーの手すりに僕をじわじわと追い詰めた。僕はその迫力に気圧され、後退りするしかない。
「ヴァ、ヴァレリオ?」
ヴァレリオは両手を僕の肩の脇に突くと、自分の腕の中に僕を閉じ込める。
「照の話はするな。聞きたくない……」
僕の耳に響くヴァレリオの声は、僕がいつも苦手だと感じるあの声だ。それはまるで、脳みそに蕁麻疹でもできたみたいに不快で、僕は、今すぐに頭の中に手を突っ込んで猛然と掻きむしりたい衝動に襲われる。
「その声……やめて、いやだ……」
僕は両手で耳を塞ぎながら顔をぶんぶんと横に振った。
「嫌なら、今から俺の前で照の話しはするな。約束しろ」
ヴァレリオは僕の頼みを聞き入れず、声を変えずにそう言った。
「わ、分かったからやめて……あ、頭がおかしくなる……こ、これは何なの?」
僕はヴァレリオの両腕を強く掴むと、上目遣いでそう尋ねた。
テレキネシスの禁止は約束できたが、この良く分からないヴァレリオ独特の声については、今まで機会がなく言及したことがなかった。
「アルキロス星人は、相手を威圧する時や、思念を強く伝えたい時に、独特の周波数の声を発する。それが摩央の脳に負担を与えてしまうのだと思う」
ヴァレリオはそう丁寧に説明をした。
「わ、分かってんなら、もう二度としないで……本当に辛い」
僕はヴァレリオを必死に睨みつけながらそう懇願した。
「約束してくれ摩央。俺の前で照の話はするな。ただそれだけだ」
このヴァレリオの感情は、完全に照に対する嫉妬だ。僕は今二人から嫉妬の板挟みを受けている。困ったことに、ついに嫉妬という感情がヴァレリオに芽生えてしまった。この感情は一番厄介だ。上手くコントロールできなければ、好きな相手も恋のライバルも、更には自分自身をも傷つけてしまう。
「約束……するから、もう二度とこの声で僕に話しかけないで……」
僕はそう言うと、ヴァレリオの腕に頭を擡げた。そうしないと、自分の頭を自立させることができないくらい、ひどい眩暈のような症状に襲われるからだ。
「摩央……大丈夫か?」
ヴァレリオはいつもの声のトーンに変えると、僕の頭を両手で支えた。
「すまない……やりすぎた。つい、理性が壊れた……」
ヴァレリオはそう苦しげに言うと、いきなり僕の脇に手を入れ、まるで幼児でも抱っこするように、僕を軽々と持ち上げた。
「ちょ、ヴァレリオ、何してるの?」
僕は、慌てて床に足を付こうとしたが、ヴァレリオはそれを強く制した。
「ねえ! ヴァレリオやめてよ!」
僕の叫びをヴァレリオは無視すると、いきなり僕はヴァレリオに膝裏に手を入れられ、お姫様抱っこをされてしまう。
「わっ、何!」
僕は恥ずかしさのあまり、ヴァレリオの腕の中で強く藻掻いたが、僕の力ではヴァレリオの体幹などびくともしない。
「いやだ! 恥ずかしい! 早くおろしてよ!」
僕は必死に体を揺さぶり抵抗したが、全く言うことを聞いてくれないヴァレリオにうんざりし、抵抗するのを諦めた。
「摩央……人を好きになるという感情はとてもワクワクして楽しいものだ。でも、その反面、摩央の気持ちが自分に向いていないと、こんなにも辛く苦しいものだと分かった……」
ヴァレリオは僕を見つめながら真剣な顔でそう言った。僕は自分を見下ろすヴァレリオの顔を、近くでまじまじと見つめた。
本当に整った綺麗な顔をしている。頬にあるエメラルド色の痣のような装飾が、ヴァレリオの顔面の美しさを更に際立たせている。
僕が思わずヴァレリオの顔に見惚れていると、不意に視線が重なった。その瞬間、胸の奥がぞわっとするような感覚を覚え、急に息が苦しくなった。ヴァレリオのその漆黒の闇のような瞳は、まるで小さな宇宙のように神秘的で、僕はこの男の瞳の中に深く堕ちていく自分を想像してしまい、はっと我に返ると、ヴァレリオから慌てて目を逸らした。
「……そ、そんな感情知らなければ良かったね……知らなければ苦しまずに済むんだよ? もう日本でのことはすべて忘れなよ。その方がいい」
僕は夕焼けに染まる空を見つめながら、他人事のように言った。
「摩央は俺に言わなかったか? 苦しみを乗り越えた先にある幸せが一番、自分の人生を輝かせてくれると」
「い、言ったよ。よく覚えてるね……でも、それはこの地球でのことだ。アルキロス星には苦しみは必要ない。アルキロス星は争いや犯罪のないユートピアだ。そんな星に良からぬ影響を与えてはいけない」
「確かに我々の星はそうだ。でも、ユートピアとディストピアは常に表裏一体だ」
僕はヴァレリオの言葉にハッとしたが、何も言い返せなかった。
「今日はもう疲れた……このまま眠りたい」
僕はもう何も考えたくなくて、ヴァレリオの首に腕を回すと、『ベッドに連れてって』と言った。別に他意はないつもりで僕は言った。本当にただ眠りたかったから。
「ベッドには運んでやる。でも寝かせるつもりはない……」
「え?」
ヴァレリオは僕を抱えながら室内に向かうと、バルコニーの扉を、手を使わずに開けた。お決まりのテレキネシスだとは気づいたが、僕は今、ヴァレリオが言った言葉に、完全に思考停止状態に陥っている。
「い、今、何て言った?」
僕はヴァレリオの腕の中で硬直しながら、恐る恐る問いかけた。
「寝かせるつもりはないと言った。当たり前だろう? 寝られてしまっては摩央との時間が無くなる」
「いや、いや、だから……僕は疲れたんだよ? 眠いんだよ?」
ヴァレリオは僕の言葉を無視すると、僕を、自分のベッドまで運び、そこに優しく横たわらせる。
「安心しろ。摩央の嫌がることは絶対にしない」
ヴァレリオはそう優しく言うと、自分も僕の脇に横たわった。
「摩央……さっきはすまなかった。自分の感情をコントロールできなかった。こんなことは初めてだ。俺はおかしいのか?」
ヴァレリオはそう言うと、体を横向きに起こし、片手で頭を支えるような恰好をしながら、僕を見下ろした。
「おかしくないよ。それは嫉妬という感情だよ。とても厄介なものだよ。人を好きになるとね、自分の好きな人が、誰かと仲良くしたりすると辛くなるんだよ。自分だけを好きでいて欲しいっていう独占欲が、沸いてくるみたいな感じ……」
「摩央は感じたことはないのか? その嫉妬というものを」
僕はまた自分の人生を反芻する。でも、何度思い返しても、嫉妬というものに自分自身を見失ったことはない。
「ないね……僕は今まで、誰かを本気で好きになったことがないから」
「……そうか。なら、どうやったら摩央の心を手に入れられる?」
ヴァレリオは真っ直ぐ僕を見下ろしながらそう言った。僕はまたあの深い漆黒の瞳に見つめられるのを恐れて、慌てて目を逸らす。
「分からない。僕はいつも映画のことばかり考えていたから。自分の映画で誰かを感動させたいって夢ばかり追い求めてきたんだ。だから正直、恋愛には興味がなかった……でも、そんな僕が恋愛映画を撮るなんて、おかしな話だよね……」
僕は天井を見つめながら自虐的に笑った。本当におかしな話だ。こんな僕が作る映画など、ただ恋というものを薄っぺらになぞっているだけの、中身のない映画になってしまってもおかしくないだろう。
「おかしくない。俺は摩央の作ったストーリーが好きだ。最初、摩央が演じるあの女は、俺が演じる男に出会うまで恋を知らなかった。ただそれだけのことだ……摩央も、ただそれだけのことだし……そしてそれは、俺も同じだ」
「ヴァレリオ……」
僕はヴァレリオの言葉に胸が詰まり、涙腺が緩んだ。
「俺が、摩央にとっての、初めての恋の相手になりたい」
ヴァレリオはそうはっきりと言うと、僕のあごをそっと長い指で掬った。
「凄いなあ、ヴァレリオは、僕を感動させる言葉を言えるようになっちゃうなんて。成長著しいよ」
僕は心から感心してしまいそう言った。『ただそれだけのこと』なんて言葉をヴァレリオから聞かされるなんて。その言葉に、僕は今素直に自信と勇気を与えられている。
僕は、ヴァレリオが成長するたびに、豊かな感情の素晴らしさに改めて気づかされる。機械的だったヴァレリオが、今では、僕を感動させるような人間性を身に付け始めているのだから。でも、僕にとっての初めての恋の相手が、ヴァレリオであるかどうかはまだ分からない。
「好きだ。摩央……」
あ、キス、される……。
そうぼんやりと思っていると、僕は急に強い睡魔に襲われていくのを感じた。
「ありがとう。僕を……好きに、なってくれて……でも、ごめん、ね」
僕は、強い睡魔に抗いながらそう途切れ途切れに言った。
「何故謝る? 謝るくらいなら俺を選べ。そうすればもう、摩央は照の部屋に行かなくて済む」
「……あはは、そう、だね……」
「笑うな。俺は真剣に言っている」
ヴァレリオは顔を苦しそうに顰めると、僕の顎を持つ指先に力を入れる。
どちらかなんて選べない。そんな残酷なことできない。僕は照のことが好きだし、ヴァレリオのことも好きになりかけている。二人への『好き』がどこまで飛躍するか自分でも分からない。ただ、どちらかを選ぶことができないのだけは、はっきりと分かる。
「男に、二言は、な……いん、だか、ら……」
僕がそう言いかけた時、ヴァレリオは僕の口を塞ぐようにキスを落とした。でも、僕はもう既に、夢の中へとゆっくりと落ちてしまった。
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