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もっと心躍る、喜びに満ちた歌をともに歌おう 2
姉夫婦は奏が生まれてから東京某市にある実家近くに住みながら共稼ぎで子育てをし、両親は時々孫のお守りを買って出る……という絵に描いたような幸せな暮らしをしていた。
が、当時は父が60歳定年後の再雇用で、専業主婦の母も僕らの自立後始めた習い事三昧の「アクティブシニア」と呼ぶにも少々若いジージとバーバだったのだが、数年もしないうちに根を上げ、子守役を返上した。
藤崎家一同の「わんぱくでもいい、たくましく育って欲しい」という願いを体現したかのように、奏は「のびのび保育」を売りにした園ですら問題児ぶりを発揮するアルティメイテッド・ワンパクキッズに成長していた。
いくら「男の子の育児経験がある」と言っても僕が大人しいインドアタイプだったため、母にとってはだいぶ勝手が違ったらしい。父は仕事一筋の男で家庭は妻任せで、男は黙って「不器用ですから……」とか言ってりゃカッコいいと思ってる昭和世代だからね。
それでも奏は、郊外の貴重な自然環境の中で思いっきり遊ばせてくれる野外活動重視の保育園に移ってからはフィジカルエリートぶりを遺憾無く発揮し、年長組になると「だいぶ落ち着いた」と太鼓判をもらって卒園した。
ところが小学校に入って早速、最初の新入生歓迎集会で暴れた奏はPTAの親達の間でも有名人になってしまった。
紆余曲折はあったものの、校長先生と担任の先生との面談で姉夫婦は、奏を専門医に受診させたらどうかと勧められた。姉の夫は難色を示したが姉は決断したーーと言っても当時は小児診療とか発達障害に関する専門医の絶対数が少なく、人気の医師は予約が半年から一年待ち、という事がザラだった。
学校を通じて申し込んでも初診は夏休みの頃でーー遊ぶ気満々の奏を連れて行くのにまた一悶着あったそうだがーー診断がついた時、姉は「育てにくいのは自分のせいじゃないとわかってほっとした」と言っていた。姉夫婦も奏を気長に見守るべきか厳しく叱るべきか、ずいぶん試行錯誤したようだ。親となった日から背負うプレッシャーや責任感はの重さは、僕には想像がつかない。
しかし、姉の夫やうちの両親は我が子(孫)に「障害」と診断名がつけられたことをなかなか納得できなかったようだ。
当時は「発達障害」という言葉そのものが教師を含めた世間一般にやっと認知され始めた時代で、奏のような子に対する支援の制度がやっと始まったばかりだった。
奏の場合は支援員の先生がついて公立校の普通級に通った。元々社交的でユーモアがある子だから友達は多かったし、担任や先生にも恵まれた方だったという。
姉夫婦も仕事と家事と奏の子育てに通院と療育が加わり、忙しい時間を二人でやりくりしながら本を読んで勉強をしたり、同じ障害を持つ親子の会に通ったり、とにかく頑張っていた。
そのお陰で無事に中学に進学したと思ったら、二年の二学期で奏は不登校になってしまった。
姉の夫も悪い人ではないのだが「学校と療育に通っていたら、いつか普通の子と同じになれる」と思い込んで頑張っていた節があり、何だかんだ溝が大きくなっていた姉とは離婚してしまっていた。その影響もあったのかもしれない。
一番手を差し伸べて欲しかったはずの我が両親も姉の夫と価値観が似たかよったかな人達だから、奏の子育ては各方面からの板挟みのオンパレードで姉は相当苦労したと思う。その時期にSOSが来た。
「カウンセラーでもないし、ガラスのギザギザハートな思春期なんて怖くて預かれない」と最初は断ったのだが、
「奏が『ナオ君ち行きたい』って言ってるの。迷惑なのはわかってるけど、ジジババの干渉から距離を置く方法が他になくてさ」
姉にそれを言われると弱い。否応なく共感してしまうウィークポイントだ。
「けど、小学生の夏休みとはちがうんだよ。僕も唯人も普段は仕事だからお客さん扱いはできない」
「わかってる。家事は分担する、二人の休みの日にはこっちに帰って来るって約束させるからさ。お願い」
小学生の奏は確かに連休や夏休みなんかの時によくーー今では時代も違うし、そんな事怖くてとてもやらせられないだろうがーーリュック一つで電車に乗って遊びに来た。
と書くと何やら、ショタ的BL展開を期待されるかもしれないが、その頃僕はもう唯人と同居していた。彼も純粋にサービス精神旺盛な子ども好きだったから、三人でドライブやプールや釣り堀ーー色んな所に行って遊んだ。
とは言え、あれは短期の「おもてなし」の滞在だから僕らも休日モードで童心に帰り「いいかげんはいい加減」方式でのほほんとしてればよかった。成長した彼と長期に共同生活をするとなるとまた話は違う。
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