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喜びよ!2

「だって、せっかくナオと一緒にいられる時間を減らさなくて済むし」  真顔でサラッとこういうことを言ってくれる唯人さんに、マトモに照れて耳まで赤面する僕。  確かに会社員の僕とサービス業の唯人さんとでは、どうしても休日がずれるので一緒にいられる時間そのものが貴重なのだが、まさか僕まで巻き込まれるとは思わなかった。 「男声パートが足りないんだって。入ったら大歓迎されるよ」 「合唱なんてやった事ないよ!」 「ツッパる事が男の勲章」だった中学時代(その風潮に賛同していた訳では決してない)、変声期やら反抗期や付和雷同やら諸々で音楽の授業中に男子パート全員がストライキして、いざ文化祭の合唱コンクールの本番直前になってクラス委員の女子に泣き落としで説得されて渋々、調子っぱずれの声を出してやったアレが合唱だというんなら、経験が無くはないんだけど。 「俺だって初心者だよ。ナオ、いい声してると思うんだけどな。高校の時、吹奏楽部だったんだろう?」 「よく覚えてたな。四半世紀近い大昔だし、全くの別ジャンルだぞ……」 「楽譜は読めるんだろう?俺なんて耳学問で聴く専門だからさっぱりだ」  そういうもんなのか。 「よくそれでやろうって気になったな」 「バンドやってる人らだって耳コピじゃん。そらに初心者でもちゃんと一から教えてくれるんだって」  唯人さんの前向きさに感心した。今でも十分多趣味な上に、さらに未知の新しい事にチャレンジしようという唯人さんの好奇心と度胸にも。  僕はと言えば、全く知らない人達の集団に入ってもすぐに溶け込めるコミュニケーション強者の唯人さんと、ぼっちで壁の花ならぬゼニゴケか黒カビの僕……という光景が浮かんで密かに震えた。 「ドイツ語の読みだって……」 「ドイツ語!やっぱり、僕はいいよ」 「どうして」 「トラウマがある。大学の時の第二外国語だった。専攻と全然関係ないのに単位落として留年しそうになった」  唯人さんはゲラゲラ笑った。奏は相変わらず爆睡している。 「真面目だな。俺なんか大学中退で、専門学校も二留だぞ。文法やるわけじゃないだろうし、カナでもふってりゃ大丈夫だよ」 「人前で歌うのが好きじゃない。カラオケだって苦手なの、知ってるだろ」 「そうか……残念だなぁ」 「唯人さんが出るなら、聞きに行くよ」  ほんの思いつきだと思ったのに、思った以上にしょんぼりされたので少し申し訳ないような気になった。 「俺はナオと一緒に出たいんだけどな」  唯人さんは少し真面目な顔つきでそう言った。 「年をとって、お互いいつかは仕事をリタイアする時が来るだろう。その時に一緒に長くできる共通の趣味があったらいいなって思ったんだ」 「年を取ったら、かあ」  その時もよく「もうオッサンだよなぁ」とお互い嘆きながら笑っていたが、そこから「ジイサン」になるのはまだまだ先の事のような気がしていた。「今が一番若い」ってのは本当だよな、と思う。  自分も社会に出たての頃、五十代のベテランの人達にも色々教えてもらっていたが、彼らは老人に片足突っ込んだものすごいオッサンに思えた。まさか自分が彼らと同じ五十代になる日が来るなんて、あの頃もまだ信じられなかったもの。  二人で暮らし始めてから数年が経っていたが、音楽に関してだけはお互いの好きなジャンルが違いすぎて、一緒に何か歌おうとか演奏しようなんて思いつきもしなかった。 「オーケストラを伴奏に歌うんだぞ。きっとすごい迫力だ」  唯人さんは目をキラキラさせた。僕にはあんまりピンと来ないが、僕と一緒に何かをやりたいと思ってくれてる事が嬉しかった。 「……まあ、有名な曲だしね。今回は遠慮したいけど、一生に一回くらいなら……」  正直、唯人さんにいい顔をしようとしたのは否めない。どうせ何年も先の話だとたかを括っていたしね。それでも唯人さんは僕が大好きな、一番嬉しいときの全開の笑顔を見せた。 「よおし。約束だからな?」  どうしてあの時僕は「今すぐ、一緒に合唱団に入ろう」って言わなかったんだろう。  僕らが揃って年を取るとか、ましてや奏が大人になるなんて遥か一世紀も先の未来のように思えたんだ。そしてその後も僕らの時間は飽きるほど永く続き、多分一緒に永代供養のお墓なんか買って、最後はどちらかがどちらかを看取って二人で入る事になるんだろうーーめっちゃ文句言ってきそうな親も、その頃にはもうこの世にいないだろうし。などとぼんやり考えていた。  ああ、僕の馬鹿。  長い長い、幸せな幻影も過ぎ去ってしまえば一瞬の儚い瞬きだ。  何故か唯人さんが第九の話をしたのは結局それっきりで、どうして僕がそれをあのタイミングでわざわ思い出したのか。それは今でも不思議なんだけど。

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