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優しい魔法が、絆を再び 3

   気合いと最期の気力を込めて放った最後のB♭のオクターヴが多目的ホールの残響となって消えていった。普段は執拗なダメ出ししかしない鬼顧問が指揮台の上で仏の笑顔を見せ、全員を見渡して頷いたーー僕らのこの一年の汗と涙とド根性の神経戦は実質、その瞬間に報われたようなものだ。実際の審査発表は何時間も先だが、後は神のみぞ知る。  僕らは起立し、顧問は振り向いて背後の闇に頭を垂れた。最愛の妻エウリディーチェに絶対見てはいけないと言い渡された地獄の暗闇ーーならぬ暗転の観客席から大きな拍手と「ブラボー」の声。もう客席に人の顔が見えても緊張してしまう心配はないが、ステージ照明とのコントラストが強すぎて人がそこにいるかどうかすらわからない。きっと満席なんだろう。  指揮者に続いて下手の中高音の子達ーートランペットやホルン、クラリネットが退場する。僕はユーフォニウムで上手側が定位置だから、わずかな待ち時間があった。ステージ袖に十数分前の僕ら同様、ガチガチに緊張している次の学校の部員たちがチラッと見えてちょっとだけ笑ってしまった。  ステージ裏の狭い通路を静かに捌けて狭いホールの外に出た。戸外の空気に触れ、青空が見えた。僕の背後で重い防音扉が閉ま途端、それまで押し殺していた歓声と安堵とねぎらいの言葉がみんなの間に飛び交った。  真夏だった。空からもアスファルトからも輻射熱がこれでもかと僕らを熱し、女の子達は汗と涙を振り飛ばして抱き合っていた。ぴょんぴょん飛び上がる女子のふくらはぎで翻るスカートときらきらと日射しを反射する楽器達がただただ眩しかった。  僕ら男子部員は少し離れたところに立ち、互いに顔を背けあっていた。目を合わせたら泣き出してしまいそうだった。男は人前で泣いてはいけない時代だったからーー僕のようなイケてない文化部系の根暗キャラならなおさら。  僕の高校三年間の90パーセントは、吹奏楽部でできていた。部活に青春時代の大半を捧げたと言い切れる。他に楽しい思い出ーー例えば修学旅行とか文化祭のクラスの出し物とかーーもあったはずなのに「青春」と聞くと真っ先にあの場面が鮮明に思い出される。  一年に一度の真夏のあの瞬間ーーコンクール本番の十二分間のためだけに費やした、質量ともに桁違いの練習時間と自分でも信じがたい精神力、「永遠」という言葉を聞くとなぜか思い出してしまうあの夏空の色ーーそれらはやはり別格なのだ。  その後、人生における重要度ではたぶんそれを上回るターニングポイントがあったはずなんだけど。唯人さんと過ごした時間を除けば、僕にとって次に大切なーー宝物のような時代だ。  演奏は団体戦だが大人の人生は過酷な個人戦だ。世間的には決して「勝ち組」とは言い難い人生かもしれないが、元の仕事は好きだったし、好きな人が恋人になってくれた。奏にも会えた。成長した奏には依然、保護者的な責任感だけでなくお互いが同士のような共感も感じられて頼もしい。  僕のような地味系その他大勢モブキャラ大凡人にはお釣りが来るほどの健闘ぶりだーーだが十代の夏の、天から輝かしい祝福が降りて来たかのようなあんな種類の感動って、後にも先にも人生であの瞬間しかなかったような気がする。  唯人さん。  神様は……いや、仏様でもいいんだけど。真剣に信じて祈れば願いを叶えてくれるんだろうか。もし叶うならーーもちろん、一番目は奏の卒業と就職のことなんだけど、もし奏が自力で頑張ってくれて僕自身の願いをちょっとだけ挟み込む余裕があるんだったらーーたった十数分に一年間の全てを注ぎ込んだあの時の、あの涙をもう一度流してみたい。今の自分の、何かが変わってくれるかもしれないから。

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