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できなきゃ夕日に向かって走っとけ! 2

 僕は階下に降りて行った。何を着ていくか迷ったので、久しぶりにスーツを取り出して着てみた。およそ半年ぶりだがすでに腰回りがきつい……少し運動しなきゃ。  やや少数派の男性陣の中でもスーツ姿は僕と、団の役員と思われる数人程度だけだった。何だか微妙に浮いている気がしてじわりと嫌な汗をかいた。  僕の後からも玄関からどんどん人が入って来た。去年ステージに上がったのは約190人……とホームページに書いてあったがその倍は人がいるんじゃないか?  人見知りの上に人混みも苦手なので回れ右で家に帰りたい誘惑に駆られた。が、「頑張れよ」と言ってくれた奏の手前、そうもいかない。  ふと、ロビーの真ん中の丸ソファーに僕よりさらに場違いの参加者がいるのに気づいた。くるくるのおかっぱ頭にキャラクター物のTシャツとホットパンツ姿の女の子が足をぶらぶらさせながら寝そべってお絵かきをしている。保育園の年長児か、せいぜい小学校低学年くらい。  ママさんコーラス(なんて呼び方、最近聞かないけどな……)の人が子連れで参戦しているのだろうか?それにしては周りに保護者らしい人の姿はない。同じ年頃の奏が同じ状況に置かれたら間違いなくプチ失踪騒ぎを起こしている。  僕は小さい子といえば奏しか知らなかったから、世間一般の(定型発達で多数派の)子ども達は「じっとしていろ」と言われれば短時間だけならその場にいられるし、親を見失って泣いたりすることはあっても大人が何かに気を取られた数秒の間に、毎度律儀に行方不明になったりはしない……という事に奏がだいぶ大きくなってから他所の親子連れを観察する余裕ができて、それで初めて気がついた。  ちなみに家の中で遊ばせようとすると普段は完全に大人二人の暮らしだから、小さい子には安全面で少々難がある上、好奇心のままに破壊活動に走られてしまうので一日中は置いておけなかったのだ。  ふと、ネットで見た第九演奏会の動画の中に、大人たちに混じって少年少女が参加しているものがあった事を思い出した。 ーーまさかこの子も第九を歌うのか?  だが、ドイツ語の合唱に参加するにはさすがに小さいような……いや、人は見かけによらないものだ。ドイツ語ネイティブのバイリンガルって事もあり得る。関東平野の片隅にある我が街だって今や、昼間の国道で信号待ちをしている歩行者の半数以上はシニアカーの使い手か自転車に乗った留学生、技能実習生のYOU達なのだ。  そんなどうでもいい事をぼうっと考えていたら、さっきの惚れ惚れするようなイケボが談笑する声が耳に飛び込んで来たーーいかんいかん。  いかにも高齢オタク風の中年男がよそのお子様を凝視してきたら不審者にしか見えない。僕だって見つけたら通報する。  気づいたついでに声の主を探して、だいぶ人口密度が増してきた界隈を見まわした。 「藤崎君!」  今度は別な声。 ーー何っ?知り合いなんかいないはずだぞ!  その割には聞き覚えのある、懐かしい声のような気がして思わず振り返った。 「花田課長?」  そこには数年前の僕の記憶より白髪と皺がやや多くなった元上司が、職場で見慣れたスーツ姿に「STAFF」と書かれた腕章を巻き、見たことのない満開の笑顔で立っていた。 「ああやっぱり、藤崎君だ。元気だったかい?」 「あの、ええと、はい。お陰様で」  かの鳴物入りの「平成の大合併」により人口ン十万の出来高を稼いで中核都市に昇格した、東西南北にただただだだっ広いだけの「隣は何をする人ぞ」な都市砂漠だと思ってたのに、そして他にも市民参加の舞台プロジェクトや合唱団が無いわけじゃないのに、よりによってこんな所でもう一生コンタクトを取ることはないと思っていた、音楽とはまるきり別ジャンルの元職場の人間に出くわすなんて!  地方都市の世間の狭さ、恐るべし。これが恩人の花田課長でなかったら「ピンポンダッシュだからセーフ!」と自分に言い聞かせながら回れ右して全力失踪、いや疾走で逃げ帰っている。 「いい年してオバ様方に混じってキャッキャウフフとコーラスかよ(いや、オッサンも僕より若そうな人もちゃんといたけど)」という心の中のミソジニーな冷笑をねじ伏せ、向こう一週間分のありったけの夢とやる気と勇気と元気とその他モロモロをかき集めてようやくやって来たと言うのに、さっそくこんな気まずい思いするなんて……何の罰ゲームだ。

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