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できなきゃ夕日に向かって走っとけ! 4

「ところで会社の方はどうだ?いよいよ大変そうになってきたか」 「ええと、それが……」  僕はついに会社を辞めてしまい、休職中である事を話した。花田さんはやはり残念そうな顔で「時代なのかねえ……」と呟いたが、僕はずっと申し訳なく思っていて心に引っかかっていた事が報告できてほっとした。  と、僕の足下にどん、勢いよくぶつかってきた塊がある。 「おーたーん」  塊の正体はTシャツに短パン姿の、あのくせっ毛の女の子だった。四畳半だろうが大草原だろうが、目の前に空間があればとにかくルーティンのように走り回っていた時代の奏のイメージがダブる。  足にしがみついたまま顔をあげた女の子と、僕は目が合った。人違いに気がついたらしく、女の子は今度はサッと花田さんの陰に隠れた。 「アカリちゃん。人にぶつかったら、ごめんなさいでしょ」  花田さんが優しく言って聞かせると、アカリちゃんは「ごめんなさーい」と言いながら何が可笑しかったのか、キャッキャッと笑いながら大人達の間をすり抜けてまた、向こうに走って行った。  腕章をした人も受付に並んでる人も慣れているのかほぼ動じる事なく「ぶつかると危ないわよ」「遠くに行かないでね」なんてやんわりたしなめている。少子化以上に非婚化が著しいが、この世代はまだ子育て経験者の方が多数派なのだと思う。 「花田さんのお孫さんですか?」 「いいや。団員さんの娘さんでね。時々練習や運営の会議に連れて来るから、みんな知ってるんだよね」  かと思うと、アカリちゃんは周回する彗星のようにまた戻って来て花田さんにじゃれつき、また行ってしまった。  僕は「お絵描き帳は?」と聞いてみた。奏も目先のことに気をとられてずいぶんなくし物や忘れ物をする子だったからね。 「いいの。またおえかきするから」  アカリちゃんはくるりと振り返って生えかわり中の前歯を見せた。 「おじさん、だれ?」  人懐っこくて物怖じしない子どもらしい子だが、早期教育でドイツ語の合唱をしそうな子には見えない。 「花田さんの、ええと……」 「お友達だよ」  花田さんが笑ってつけ足した。僕は内心恐縮したが、ちょっと嬉しいような不思議な気持ちがした。音楽の下では全ての人は平等なのかもしれない。  僕は屈んでアカリちゃんの視線まで僕の視線を下げた。 「アカリちゃんは小学生?」  これは奏を連れて出かけている時、周りの子ども達とも接する内に身につけた、ちょっとした社交術だ。保育園か小学生か、少し微妙な年の子には初対面で少し大きめに聞いてあげるとよい。案の定、アカリちゃんは胸を張って自慢気に答えた。 「にねんせいだよ」 「へえ、大きいんだね」  あかりちゃんはパレード中の金メダリストみたいにとびきりの笑顔を見せた。正直、小学二年生にしてはかなり小柄だと思ったけど、個性は人それぞれだ。これから大きくなるかもしれないし。 「君も第九を歌うの?」 「うたわなーい」  アカリちゃんは可笑しそうにケラケラ笑うと、何か他に興味のあるものをみつけたらしく僕の横をすり抜けてあっさり向こうに行ってしまった。  子どもってどうしていつもにぎやかできらきらしてて、幸せの塊のようにしょっちゅう飛び跳ねているんだろう。  子育てなんて手間暇がかかって忙しくて面倒で悩ましいことだらけだろうと思うのに、子どもの笑顔というたった一パーセントのエフェクトが残りの全てを帳消しにしてしまうんだろうか……姉はそうして人参をぶら下げられた馬車馬のように二十数年頑張り続け、成長した奏は「生まれた時から分別のある大人でした」といわんばかりの顔で姉や僕に時々昭和生まれに対する耳の痛いダメ出しをしてくる。コスパやタイパ的には壊滅的な、何て恐ろしいパワーゲームだ。 「そういや、藤崎君も東京に小さい甥御さんがいたろう。一度、会社のレクに一度連れて来てた」 「よく覚えてますね。今、大学三年生なのですが、事情があって僕の家と行ったり来たりしてます」 「そうなのかあ。早いなあ。歳を取るわけだ」  花田さんは感心したり苦笑したりした。 「楽は苦の種、苦は楽の種」なんて言うけど「楽」は確かに幸せとイコールではない。幸せはむしろ苦行とセットなのかもしれない。  いつか僕が寝たきりで介護される身になったら「第九を歌っていたあの頃がキラキラ輝いていた、第三の青春だった」なんて思ったりするんだろうかーーいや、あくまでまだ未定で、仮の話なんだけど。

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