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できなきゃ夕日に向かって走っとけ! 9

 演奏会の最後にもう一度、燕尾服姿の指導者の先生が出てきてみんなに呼びかけた。花田さんよりは年上で、決して大柄ではないが姿勢が良くステージによく映える。僕らの吹奏楽部時代の恩師も元気なら彼と近い年齢かもしれない。ただし物腰が柔和で、少なくともスパルタではなさそうだ。少しほっとする。 「これもちょっとしたサプライズなんですけどね。この中には経験者の方も初めての方もいると思うんですが、初回の練習代わりに第九の『さわり』を歌って見ようと思います」  会場から拍手が起きた。 「普段の練習はピアノ伴奏なんですが、今日は金管アンサンブルの方が応援してくださるので、よりオーケストラと歌う感覚に近いと思います」  さらに拍手。 「あ、『さわり』ってのはね『試し聞き的な歌い出しの部分』とか『イントロドン』だと思ってる人多いですけど。本来は『一番の聴かせどころ』って意味ですよ」  笑いに混じり「ほう」とどよめきが起きる。楽しい先生だ。 「楽譜をお持ちの方は29ページから。入団手続きをした方は『入団者のしおり』の裏に歌詞が書いてあります」  僕は楽譜をまだ買ってないので、さっき「おーさん」にもらったしおりを見た。第九の合唱部分の歌詞が日本語訳と、カタカナのふりがなつきで書いてある。 Freude(フロイデ)shöner(シェーネル) Götterfunken(ゲッテルフンケン)Tochter(トフテル) aus(アウス) Elysium(エリジウム) (喜びよ、美しい神々の火花よ、楽園の乙女よ) Wir(ヴィル) betreten(ベトレーテン) feuertrunken(フォイエルトゥルンケン)Himmlische(ヒンムリッシェ)dein(ダイン) Heiligtum(ハイリッヒトゥム)! (私たちは火のように酔って神の神殿に上がる)  先生かひと通り歌詞の説明し、二度ほど読む練習をした。 「何もない方やドイツ語が難しい方はラララ……で真似してみてください。練習は来週から、一から繰り返しやりますから。メロディーを弾いてみましょう。一番有名なところなので、皆さん聴き覚えあると思いますが……」  先生は左手でマイクを持ったままピアノに向かい、日本に住む人ならど年末のどこかで必ず耳にするあのメロディを右手で弾いた。 「ね。簡単ですから。今だってホラ、片手で弾けちゃう」  くすりと笑いが漏れる。 「ベートーヴェンは日本じゃ『楽聖』って呼ばれるくらいで、歴史上の数ある作曲家の中でも別格なんです。当時の音楽上、新しい事、初めての事をたくさんやったし難しい曲、複雑な曲をたくさん描いた。第九なんてその最たる物です。交響曲に合唱を入れた作曲家はーー後の時代だとマーラーとかショスタコーヴィチとか色々いますがーーベートーヴェンが一番最初なんです」  今度は「ほう」というどよめき。 「ですが、ここだけは簡単なんです。あんな事もこんな事も、色んな難しい事ができるベートーヴェンが敢えてオーケストラと合唱、一番の『さわり』だけは誰でも歌える簡単な曲にしたんです。他はめちゃくちゃ難しいですが」  どっと笑いが起きた。 「お喋りはこれくらいにして、実際やってみましょう。経験者の方は去年の本番ぶりになりますが、これで今年の団員数が決まるのでしっかりサポートしてくださいよね」  先生はもう一度笑いを取ると進行係の人にマイクを返し、金管の人達と短い打合せをして再びピアノの前に座った。特に指示はされなかったが、八割くらいの人たちが自然に立ち上がった。僕もつられて立った。

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