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できなきゃ夕日に向かって走っとけ! 10

 静かな、しかし緊迫感のあるホルンのシンコペーションの前奏ーー楽園に招く角笛の音なのだと後で聞いたーーから全員合唱の直前に一気に盛り上がりオケも合唱も全員参加の歓喜の歌が始まる。 「フロイデ、シェーネル ゲッテルフンケン……」  弦楽器がわりのピアノが三連符で上昇と下降を繰り返し、金管が祝福のファンファーレで合いの手を打つ。四声が混ざり合い響き合う高揚感ーーまさに圧倒的な歓喜の音楽だ。  僕は最初、遥か昔の学生時代に置き忘れてきたドイツ語の発音を思い出しつつほとんどカタカナだけを見て歌詞を負っていたが、「フロイデ、シェー……」辺りで止めた。  僕の真っ直ぐ真横、ちょうど座っていた席のある列の反対側の端に「おーたん」がいつの間にか来ていて、あの朗々とした声でバスパートを歌っていたので、自分が歌うどころじゃなくてすっかり聴き惚れてしまった。  とにかくこの人、只者じゃないオーラが満載だーー色々と。  式が終わってホールの外に出ると、さっきはガラガラだった「楽譜販売」の列にも「新規入団申込」の受付にも長い列ができていた。「おーたん」はアカリちゃんの就寝時間のために先に帰ったのか、姿は見えなかった。嫌いな行列に並びながら、オッサンの忠告を聞かなかったことを後悔した。  並んでいるうちにまた、不安が頭を持ち上げる。お金のことはさておいても「毎年の三分の一が初心者なんですが、ちゃんと歌えるようになります。大丈夫です」という先生の謎の太鼓判と、花田さんや斉木のオッサンのゆるーい感じを真に受けて入ったらセミプロ並にハイレベルな、スパルタの団だったらどうしよう。そこまでいかなくても芸術系界隈にありがちな気詰まりなしがらみと不文律だらけの団だったらーーいや、花田さんと斉木さんでも続けられているんならさすがにそれはないか。 「ほいっ、あんちゃんお待たせっ」  順番が来てた。オッサン意外と仕事早いのな。有能かよっ。  ここでやっぱり入団やめます、なんて言えたらキングオブ優柔不断王だよなぁ。そこまで空気を読まずに優柔不断を貫けるんなら逆に、就職だってとっくに決まってたんじゃないだろうか。 「入団おめでとうな。頑張ろうや」  斎木さんが意外と爽やかな満面の笑みで、まっさらな第九の楽譜を渡してくれた。茶色の地に白で記されている「BEETHOVEN Symphonie Nr.9 in d Finale op.125」の文字に胸が震え、持ち重りがした。 ーープロのオーケストラや声楽家と同じ楽譜……  クラシック音楽とドイツ語にかつて(本当にちょっとだけ)携わっていた者としては身の引き締まる感動だ。もう少し浸りたかったところで 「はいまいど、おつり八百万円。あんちゃん頑張んべ」  なんて斎木さんがやったもんだから盛大に爆笑してしまった。この人絶対、現役時代は上州御用八百屋かよろず屋のオッサンだったに違いない。

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