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SDGsでいこう 6
「じゃあ、練習してみたら低い声向きだったってこともあるわけですね」
「いや、あんたはどうしたってテノールだろ。話し声が高い奴ってのはだいたい高音が出るもんなんだよ」
ひそかに気にしていた急所を悪気無く突かれて思わず下を向いた。声変わりが遅く「女みたいな声」と級友にからかわれた中学時代がフラッシュバックする。周囲が大人ばかりになるにつれて誰も指摘しないようになっていたから、あえて気にしないようにしていたのに。
「大丈夫大丈夫。うちの先生は優秀だから。プロの声楽家を何人も育ててる」
斎木さんは僕が急に黙り込んだので自信がないのだと思ったらしい。
「俺だって入った頃は三つくらいしか音出なかったからな」
あ。逆に説得力ある。
「やってみて高い声が出なきゃバスに行きゃいいだんべ。どのみち二つしかねえんだから」
まあ、それもそうか。
ホールに入ると入り口側の客席には二十人弱の(平均年齢高めの)新人たちが来てもう座っている。仕事で来られない人もいるんだろうけど「三分の一が新人」というのは言い過ぎではないのかな。やはり女性が多いが男性も五人ほどいて安堵する。
客席はちょうど四列あった、グランドピアノの置いてあるステージに向かって左からソプラノ、テナー、バス、アルトの場所になる女性パートの場所になる。
「今の時間は人数少ないから、ピアノの周りに集まってくださーい」
花田さんの指示通り、僕らはグランドピアノを遠巻きに取り囲むように、半円状に並んだ。
ふと座席を振り返ると女性側の座席は、新人より早く到着した先輩方によっておおよそ三列目から後方まで、カラフルなショールが掛けられたりバッグや楽譜が置かれたりしてお仲間グループ用に席取りがされていて、そのマメさに驚く。男性パートがまるきりのフリーなのと対照的だ。
「男と女の間には深い溝がある」という歌が昔あったっけな……衣干すなり天の香具山。
「こんばんは」
時間ぴったりに合唱団にはそぐわない作務衣姿の年輩の男性がひょっこりと現れた。僕も周りの人たちもちょっと面食らったがすぐに、結団式の時にスーツ姿で現れた合唱指導の先生その人だと気がついた。
「畝川(せがわ)です。五月というのに真夏日ですねえ。実用第一主義なものでこんな格好で失礼」
緊張気味だった新人集団に笑いが漏れた。畝川先生は短く刈り上げた黒髪混じりの白髪頭に銀縁の眼鏡をかけ、紬の作務衣は加減よく洗い晒しになっているーー日常的にこういう格好をしている人なのだろうか。「指揮者」とか「合唱指導者」というよりは昭和の名ドラマで下町の縁台で将棋なんか指している方が似合いそうだ。いくらなんでも実用重視しすぎだろう。寒い時には何を着ているのかなーーって、どうでもいいか。
結団式からたった一週間しか経っていないというのに半袖一枚でないと過ごせないような暑さになっていた。ホールには弱めのエアコンがかかっている。
昔は確か、こういう公共施設の冷暖房はきっちり暦通りで「エアコンは七月から九月」だった。何かのイベントでどこかのホールを梅雨明け前に借りて、汗だくで文句を言っていたのを思い出す。もし今でも「きっちり暦通り」だったら、社会人サークルの半分以上は熱中症の救急搬送騒ぎに見舞われることだろう。
都市気候も手伝って、年度始めの晴れた日はあっさり真夏日になり、雨が降ると冬とは言わないが、二ヶ月前の寒さに逆戻りだ。昨日は暖房入れて今日は冷房でももう、誰も何にも言わなくなっている。何が「平年並み」だったかもう思い出せない。
どっちがよかったのかはわからないけど、これももう元には戻らない事の一つなんだろう。
「こちらはピアノを弾いてくださる安達先生」
畝川先生とは好対照のシックな黒のワンピースに光沢のあるストールを羽織った、いかにもピアノの先生といった雰囲気のロングヘアの女性がピアノの脇でにっこりと頭を下げた。
ご近所の奥さん達のそれとは一線を画した芸術家特有のオーラをまとっていて、年齢不詳指数は石井さんとタイくらいだ。
「十二月の演奏会まで長丁場ですけどね、やる事も一杯ありますよ。地道にコツコツ、必ず歌い切って成功させましょう。これから一年間よろしくお願いします」
畝川先生は満面の笑顔で僕たちを見回し、手をひらひらさせた。
「皆さん、フレッシュなのに表情が怖いですね。とって食ったりしませんから安心してください」
うっすらと漂っていた緊張感がはじけて笑い声になる。
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