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喜びよ!ふたたび 3
さて、今日も今日とて……である。
合唱の残りを習いつつ、そろそろ忘れかけている(?)最初の方を忘れないよう復習する。
「ドイツ語は皆さんが思うほど難しくないですよ。ほとんどローマ字読みですし」と結団式の時に言われたが、地球の半周先の国の言葉がそう一筋縄にいくはずがない。
OやEの上に点が二つつくウムラートの発音とか一つだけのLと二つ続くLLの発音の違い、あとはRの巻き舌……日本の学校制度上、10年間付き合わされて結局喋れてない英語とも勝手が違う。
初回から直されて、毎回繰り返し直されて。最初は夢中で先生の真似をしていたが、だんだん慣れてくると本当にそんなに気合い入れて発音直す必要あるの?と思えてくる。
「最初が肝心なんです。間違えて覚えて後で直すの、大変ですから」
けどさ、語学の試験を受けるわけでもないし、地方のいちアマチュア合唱団の演奏会にネイティブの客がわんさと押しかけるとも思えないしーー
「適当でいい、と思わないでちゃんと発音してくださいよ。聴く人が聴いたらバレますすから」
どこか仙人っぽい先生だと思ったら、まさかの読心術?
さて、移動と事務局からの連絡の後に「時間が押している」との事で女性と年輩者には少々酷な五分間のトイレ休憩が設定され、結局さらに五分遅れで全体練習が始まった。
女声パートの方々には「男声が加わると合唱がぐっと力強くなるわね」とぜひとも思っていただきたいところなのだが、音程も発音もぐだぐだでダメだしをされる回数は男声の方が多い。たった二言をあんなに練習した「フロイデ!」も何度も直される。
「第九にも色々な演奏があるけどね、『フロイデ』にも二種類あるんだよね。断言型と疑問型」
そして先生の唐突に始まる「五分でわかる第九とベートーヴェン講座」。みんなはふんふんと頷いている。
「第九ってのはね、自己否定の音楽でもあるんだよね。ベートーベンの生きた時代にフランス革命があって王政が倒され、ナポレオンが登場した。ベートーベンも他国人ながらこの庶民出身の英雄に熱狂し、期待したんだ。日本人の僕らだってオバマ大統領が登場したときブームになったじゃない?
ところがナポレオンは皇帝になってしまった。ベートーベンは失望し、ナポレオンのために書こうとしていた曲を『英雄』交響曲として市民のために発表した」
「その後のベートーベンは音楽家にとって命ともいえる聴力を失ってしまい、死まで考えた。そんな経験を乗り越えたベートーベンが人生の最後に書いたのが「交響曲第九番」だ。
『友よ、これらのような歌ではない。もっと喜び(フロイデ)に満ちた歌を歌おう』とね、力強く呼びかける。『フロイデ!』ーーそうするとね、『フロイデ!』って合唱が呼応するーー『そうだ!フロイデだ!』
苦悩から歓喜へーーそういうテーマの曲なんだからね」
「ところが最近は『フロイデ?』って疑問形で返す演奏もあるんだよ。『フロイデ?』『本当にフロイデなの?怪しいなあ』ってね。まあ政治でも恋でも『俺は強いんだから、だまって俺についてこい』なんてのは今日び信用ならないよ。疑ってかかった方がいい」
先生はたびたび笑いを取りながら持論を語る。
「僕は疑問形でいきたいところなんだけど…… ここはマエストロ(本番指揮者の敬称)の解釈次第。僕と同じ意見はのマエストロは何十年やっててこれまで一人しかいなかった」
さらに大きな笑い。
「だって、第九ってのは途中まで自己否定の音楽なんだから。『あれでもない』『これも違う』……古今東西、この世界で『楽聖』なんて敬称がつくのはベートーベンただ一人なんだ。それほどすごい人の人生でも色々悩んで苦しんでたってことなんだよ」
唯人さん。
僕は遠い過去の偉大な作曲家に勝手に親近感を抱いている。まさかこの先生の話を聞いて欲しくて誘ったの?……なんて事はないか。
まだまだ先だと思っていた演奏会まで半年を切った。結団以来の数十年選手、チギラさんのように専門の音楽教育を受けた人、楽譜が読めず耳コピの人、僕のように極力人前で歌いたくなくて、何で入ったのかよくわからない人……全員が一緒に十二月のステージを目指す。
「ああ、言い忘れてましたが、本番は暗譜です」
えっ……?
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