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走れ兄弟、ヒーローの道を 2

 高校時代に僕がハマりこんでいたユーフォ二ウムという楽器は、オーケストラでは一部の作曲家の一部の曲で用いられるに留まる吹奏楽には欠かせない楽器だ。主に中低音を担当しある時はメロディ、ある時は裏メロ、ある時はリズムパートや通奏低音……と節操なくーーいや、やや地味目な外見とは裏腹に驚くべきフレキシビリティを発揮して八面六臂に大活躍する。  ファッションでいえば、いかにもなブランドロゴのトップスや流行りのアイテムをひけらかすより、定番ジャケットの裏地に凝りに凝って自己完結できるような大人向けの楽器だ。  阿久津先輩のユーフォニウム歴は小学校のマーチング以来のもので、その技術力と音楽性は都の高校生の中でも群を抜いていた。本人も音楽大学への進学を本気で考えた時期があったらしい。とにかくそんな先輩と二人で二年間、ユーフォニウムパートを担当していた。  そんな先輩を中心に、低音楽器パートーーテューバやコントラバス(吹奏楽では「弦バス」と略したりもする)、バスクラリネットやバリトンサックス、ファゴットといった木管の低音部のーーで合同パート練習をする機会がよくあって、男女とか学年関係なく仲が良かった。  それで一緒に他校の演奏会を聴きに行ったり楽器屋に行ったりしてたわけ。  特に先輩とテューバパートの先輩は親友同士で筋金入りの部活人間だったから、僕も一緒に呼んでもらってCD聴いたり音楽談義に花を咲かせたりご飯食べたりした。  部の中でもダントツの人気者の二人だったから羨ましがられたけど、プライベートまでが徹底した音楽漬けの二人に他の友人や後輩たちはつきあいきれなかったのかもしれない。  今思うと、世の中に他に色んな新しい娯楽がこれでもかと登場していた時代だったのに、そんなんで楽しかったの?と自分で自分に時々聞きたくなってしまうけど、それがすごく楽しかったんだよなあ……何と言っても憧れの人といられたし。  四半世紀が経ってコンクールや演奏会の録音テープが伸びてしまっても何度引っ越ししても、プログラム類と一緒に今も大事に持っている。何十年も前の昔のことなのに、部活のことや先輩との思い出だけはつい昨日のように、細かいことまで鮮明に思い出せるんだ。  いや、何十年も変わらない人間なんていない、と言われればそうなんだけどさ。「ついで」とは言っていたけど僕に何か話があるようだ。会わない理由もないし、ご無沙汰しているお詫びも言っておきたい。  土曜日に駅で落ち合うことにした。 「ラオフェット、ブリューデル、オイレ、バーアン」  テナーのソリストが朗々と歌い上げる独唱に僕ら男声合唱がかぶさる「掛け合い」の部分。  そのリズムの軽快さから「ラオフェット・マーチ」と呼ぶ人は呼ぶ。  畝川先生がパート練習で二小節も歌わないうちにさっそく止めた。 「いい?ここは『男の歌』。張り上げる必要ないけど、しょぼくれないでね?ここはかっこいいところなんだから」  先生によると「肩を組んで学生歌を歌う感じ」なんだそうだ。ベートーヴェンの若い頃はいわばヨーロッパじゅうが「フランス革命とナポレオンブーム」で、特に旧体制打倒と共和政国家への希望に燃える若い知識層の間で、このシラーの原詩は異なるメロディをつけて歌い継がれていたという。  若き日のベートーヴェンも友人達と酒を酌み交わし、肩を組んでシラーの歌を歌ったのだろうか。 「 Freude(喜び)ーー本当は Freihite(自由)ベートーヴェンはそう歌わせたかったと思うんです。それまで作曲家ってのは貴族のお抱えで貴族のための音楽を作ってたんですが、初めて市民の為の音楽を作った人でもあるのでね」  齢五十を過ぎた晩年になって、理想を現実が裏切る歴史が続いても(例えば民衆のヒーローだと思ったナポレオンが帝政を敷いたもんだから、怒って曲の献呈を取りやめた※交響曲第三番)忘れることのなかった若き日の理想と情熱を老境の円熟味で最構築した集大成が「第九」というわけ。 「ですが、時代がそれを許さなかった。命に関わりますからね」  しかも三十代以降、聴力が徐々に衰えていたベートーヴェンは、この頃には日常会話も筆談で、オーケストラの音もほとんど聴こえなかったと言われている。そんな状態で僅かな聴力と絶対音感、これまでに培った音楽的スキルを頼りに意志の力で完成させた、楽聖の楽聖たる真骨頂を示す作品でもある。

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