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走れ兄弟、ヒーローの道を 4
練習が終わった後、ロビーでチギラさんとばったり会った。今日はカラフルなアップリケのついたロングチュニックを着ている。楽譜用のバッグは例のタイカレーの……どこで入手したのか想像もつかないこの人のセンス、好きかも。
「こないだはすみませんでした」
「いいえ、こちらこそ。ご近所さん大丈夫でした?トラブルとか……」
チギラさんは例の低音イケボで笑った。
「根に持つ人じゃないんですが、あの通り短気なんですよ。お詫びにボルシチあげたら喜んでました」
迷惑……ではなかったんだよな、よかった。
これからも節度を保って距離を履き違えないように、好感度の高いおじさんでいられますように……
本当は気になることはあれこれあるんだけど。
「今度は表からお邪魔します」
「そうしてください」
チギラさんはギリギリまで教室をやっているのか、アカリちゃんを預かってもらう都合なのか、新人対象の発声練習が終わる直前か全員での発声練習が始まった少し後、天パの髪を風やら汗やらでくしゃくしゃにしたままタイカレーの袋を引っ提げて駆け込んでくる。
あの日は「ゆる系」モードだったが、きっと普段の日の夕方は仕事と晩ご飯の献立とアカリちゃんの世話が分刻みで錯綜しているんだろう。第九の練習の日はそのドタバタをさらに圧縮してどうにかやりくりをつけて家族か身内の誰かに頭を下げて手助けしてもらって……そうしてようやっと練習に来れるんだろう。そんな本人の切実さを考えたら、高見の見物風に「可愛い今のうちが花だよ、そのうち楽になるよ」なんて安易には慰められないーー子育てしてた訳でもないし。
せめて姉と奏のエピソードから心が楽になるネタでも披露したいところだけど、あいにくシャレにならなかった話しか思いつかない。
「アカリちゃんに会えなくて残念でした。最近一緒じゃないんですね?」
「去年までは母に預かってもらえてたんです。が、やっと和解したのでーー」
チギラさんの表情が心なしか無になったーー親子喧嘩でもしてたんだろうか?チギラさんの妻さんはやっぱり毎晩遅くまで仕事なんだろうか。
薄っすら不穏な空気を感じながら、どこまで話を聞いていいのか迷っていたーー「適切な距離感」とは。
「合唱団、慣れましたか」
チギラさんの方がとりなおすように笑顔で話題を変えた。
「高い音は大変です。テノールは二声に分かれてて、下に行ったら今度はテノールの上やバスにつられてばかりいます」
「ラオフェット、テノールは聴かせどころじゃないですか。カッコいいと思って歌ったらいいんです」
チギラさんにカッコいいと思われてる。そう思って歌ったら、上手くいくーーのかな?
あとは無難な話をしてその夜は別れた。
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