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星空の上にきっと神様はいらっしゃる…… 3
「ええっ!先生の前で一人で歌うなんて」
中学時代の音楽のテストじゃあるまいし……相談ついでに愚痴りたかっただけなのに、こんな大ごとになると思わなかった。
「何言ってるんですか。先生だって聴かなきゃ教えられないでしょう」
チギラさんが志塚さんに「先生、中にいらっしゃいますか」と聞いた。
「今、会議室で他の先生方と打合せ中です」
「うーん」
僕はホッとしたのだが、チギラさんは少し考えると「ピアノ少し借りていいですか?」と聞いた。
「空いてると思うわ。どうぞ」
そして何故か当然のように僕の手を引いてホールに連行した。彼がグランドピアノの前慣れた様子で座ると、素晴らしく絵になるので一瞬魂が抜かれた。
「じゃ藤崎さん、発声練習してみましょう」
「ぼ、僕一人で?」
また一瞬で現実に戻り、声が裏返る。
「今ならみんなまだロビーにいますから。リラックスして声出してください。じゃあ、下のAからドレミレドで」
そう言って彼はいつもの発声練習の通りにピアノを弾き出した。仕方がないので僕も一通り声を出す。
「藤崎さんはやっぱりテノールだと思いますよ。レッジェーロのテノール」
「れっ……じぇ?」
なんだそのどっかのサッカーチームみたいな名前。
「声質が軽い、ってことです。重いのはドラマティコ」
「へえ……」
そんな区別あるのか。
「低音も出せてない事ないけど、埋もれちゃうと思うんです。もったいない」
いや、埋もれてくれていいんだけど。全然。人影に隠れて歌えたら理想。
「パート分けって色んなやり方ありますけど、俺の師匠は音域より声質で分けてました。上も下も正しい発声してたらある程度出るもんです」
「へええ……え?チギラさん、声楽習ってたんですか?」
「はい。芸術大学に行ってました。もっとも三年の時に美術学部受け直して転学部したんですけど」
「すごっ!」
さらって言うけど、二物を与えられた芸術系エリートじゃないか。道理で歌声が別次元なはずだ。推しから師匠と呼ばせろ。
「高音が出せないのは、余分な力が入ってるか……高音って外すと目立つから緊張するんじゃないですかね」
「ああなるほど」
「それか音程がとれてないんだと思いますよ」
と、チギラさんははっきり言った。
ジャンルは違えど、曲がりなりにも音楽を噛じってきた者にとってはショッキングな一言だ。そりゃチギラさんのように二物を与えられた天才にはほど遠いけど。阿久津さんに基礎練習としてソルフェージュをみっちりやらされて……大昔過ぎて杵柄どころか爪楊枝以下かもしれないけどさ。
四半世紀前のわすか三年間とはいえ、十代の時に身につけたことってのは馬鹿にできない。僕には未だにピアノの音階がC(ハ長調)のドレミではなくてユーフォニウムの調性であるB♭(変ロ長調)の「レミファ♯」に聞こえる。
「ベートーヴェンの合唱曲は元々難しいんです。まるで器楽みたいにアクロバティックな歌を歌わせる。これがワーグナーやヴェルディだと、大変とか難しいなりに一応人間の声の構造とか考えて書いてくれてるんだけど」
チギラさん、先生みたい……あ、絵の先生か。
「ソプラノなんて高い『ラ』を延々と伸ばすとか、ソリストでもやらないような事やってるし。気にしない方がいいですよ」
「いや、気にしますよ。歌わなきゃいけないんだから。おっさん 、血も涙も無さすぎでしょ」
チギラさんがまたあはは、と笑った。何だか嬉しくなった。
「斎木さんも言ったように、テノールは『男声の花』です。もう少し頑張ってみませんか?藤崎さん、発声に癖のないいい声しているし」
「本当ですか?」
声が高いだけでなくてさらに軽いってコンプレックスでしかないんだが、チギラさんにそう言われると「悪くはないのかな……」と思えるから不思議だ。
うんと練習頑張ったら、まさか「藤崎さんカッコいい」まではいかないだろうが「おっ、なかなかやるんじゃない?」くらいは思ってもらえないかな……なんて。
「それでもどうしても、バスパートに転向するっていうなら俺がおつき合いしますよ」
「ほんと……?助かります。その時はぜひお願いします」
そっちもかなり美味しくないか?不純な動機の間でちょっと揺れる。
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