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喜びよ! ふたたび 1

Freude, schöner Götterfunken, Tochter aus Elysium (喜びよ、美しい火花を発し炎耀(かがや)く神よ、楽園の乙女よ) Wir betreten feuertrunken. Himmlische, dein Heiligtum! (私たちも火のように恍惚となり至高聖所に至る)  唯人さん。  最近、僕は仕事にもやりがいを感じ始めている。最初はガチガチに緊張していたし周囲の人間に警戒もしていたーーいや単に溶け込めていなかっただけなのだが。  同僚とも何かと声をかけ合うようになったし、見守りモニターの会員さんにはもちろん、雑用を頼まれることもあるが、配達ついでの雑談というのが意外と多い。  そこで気づいた事がある。僕らより上の年代はよく知らない他人に自然に話しかけて会話をするのが上手だーー特に女性は。一人暮らしで話し相手が欲しいってのもあるんだろうけど。男性の場合は、本当に「人による」って感じ。 「生活のため」と割り切って始めたバイトだったが、だんだん自分の居場所になりつつあるのかもしれない。自己承認欲求の前段階が帰属欲求、だっけ。  毎日配送の仕事があって、週に一度第九の練習に向かう。終わると家に帰って風呂に入り美味しい物を食べる。そうして一日が終わってまた明日が始まる。社会への適応能力に疑問を持ったり自己嫌悪におちいったり、そういうことあまり深く掘り下げて考えずに済むようになった。人として強くなるって、こういう事なのかもしれない。  一方で、阿久津先輩の言うところの『プロジェクト』に関係するらしい参考資資料やデータが時折送られて来て、メールやリモートで意見を交わし合っている。「これさえ軌道に乗ったら、こんなところで燻ってはいないぞ」という気持ちが自分の奥で沸々としてくる。  まだ形も見えていない、先も見えない計画がどうしてこんなに未来がキラキラして見えてしまうんだろうーー十代二十代の頃ならともかく、五十代の自分には危険じゃないか? 「サラリーマンにはなりたかねえ」と歌ったのは十代の頃の尾崎豊だったが、サラリーマンでい続けるのだって相当なサバイバルだ。要介護の室内犬だとばかり思っていた自分の心の中に狼の眼光が時折ちらりと見えることに驚く。 ーーああでも、マルチタスク少なめでホワイト色多めの、配達業の正社員に昇格して年金支給開始まで働くのも悪くないと思ってたんだけど……  そんなことを考えながら夜食用に見切り品の素麺を茹でていると、唯人の部屋からものすごい音がした。行ってみるとドアが開け放しになっていて、内側に穴ーーまではいかないが、かなり目立つヒビが入っている。  僕は焦って部屋の中の奏に「おい、どうした?」と聞いた。  奏は部屋の中で怒って何やら喚き散らしている。一種のパニックなんだとわかったが、成長して感情のコントロールがずいぶんできるようになっていたのでこういうのは久しぶりだ。  努めて冷静な態度でなだめながら話を聞くと、ネットゲームの対戦相手がズルをしたとか何とかでキレて手当たり次第にドアを蹴り飛ばしたんだそうーーこれ、本人も痛かったんじゃないかな?  なんでもゲームの仕様にない違法なスキルアップをするユーザーがたまにいるらしく(「チート」と言うんだそうだ)、一昨晩も名前も顔も知らない相手に激怒して叫んでいた。  僕は話だけを聞いて、奏の生活態度や破壊活動を責めることはしなかった。唯人さんの音楽鑑賞用に、完全ではないものの防音加工がしてあってそれなりの造りだと思っていたドアが意外と安普請だったことに愕然とした。 「通報はしたんだろう?」 「したけど、運営なんか何にもしてくれない!」  言葉で怒りを吐き出すうちに、奏は少し落ち着いてきた。 「少し休んだほうがいい。怪我してないか?」 「してない」「腹減ってないか」「減ってる」 「一緒に素麺食おうぜ」  奏はここにきて就活と昨年落とした座学の再履修と、研究室の活動とでにわかに忙しくなり、しばらく東京に戻っていた。  奏の父親との面会があったり祖父母との行き来があったようで、どういうやり取りがあったのかまでは僕は知らないが、奏も表面上は平静にしていても、やはりストレスが溜まっているんだろう。最近はここに来ても三度の飯より寝るのが好きな子が、昼夜の別なくネットゲームに没頭していたりする。

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