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きっと見守っている 6

 唯人さん!聞いて聞いて!  あんなに頭を悩ませていたチケット問題が思わぬ方向から、しかも一気に解決しそうなんだ。昨夜、一ヶ月以上ぶりに阿久津さんから電話が来た。多忙のために資料の送付が遅れていることを詫びられた。阿久津さんは土日や連休、そして年休も消化しながら全国を回り、参考になりそうな事例を見たり人脈を作ったりしているという。内部告発をして干された人にはとても思えないほど楽しそうに、そんなことを話してくれた。  捨て身で告発したはずの疑惑の方はマスコミもネットも一時期、蜂の巣をつついたように大騒ぎしていたが、要人の誰かが逮捕されることも更迭されることもなく、そのうちに別な政治家の失言やら芸能人の不倫やらに紛れて世間的には鎮火してしまった。次の選挙も現政権に有利だろうと言われている。 「出る杭は打たれる」からの「とかげのしっぽ切り」状態の阿久津さんはどう思っているのか。無関係の僕でさえ忸怩たる思いなのに……むしろこちらが不安になってしまうくらいの明るさだった。 「人事を尽くして天命を待つというのはこういう気分なのかもな」  いつか話してくれる、という約束を信じてやはり僕から根掘り葉堀り聞くことはしないでおこうと思った。 「プロジェクト本体の資料はもう少し待ってくれ。藤崎に右腕になってもらうからには、焦って不確かな状態のものを渡すよりは確実なものを提示したいと思ってるーーまあ、走り出してから変更することはいくつもあるだろうが」 「あの、頼りにしていただくのは嬉しいですし、事務処理くらいならいくらでも手伝上気でいますけど。本当に人脈も金もないし、社交的な人間でもないです……前にも言ったけど」 「藤崎に求めることはそんなことじゃないよ」  阿久津さんは安心させるように大らかに笑った。 「こういう活動で必要なのはまず信頼関係だからさ」  阿久津さんは僕を高校~大学時代の、地味だが裏表のないコツコツ頑張り屋のままだとイメージしてるんだろう。僕は阿久津さんが想像している以上に、そして自分が期待していたのに反していくつになっても仕事のできない、使えない人間なのだ。そして年相応に狡くも怠惰にもなっている。  だがそれを自分で認めたくはなかったし、先輩にも言えなかった。自分は今まで人や環境に恵まれなかっただけ、本当の姿はもう少し人の役に立てて尊重されていい人間だーーそう思いたい自分もいた。  会社のような利潤第一の組織で、理想や哲学そっちのけでやれスピードだのコストパフォーマンスだのと馬鹿の一つ覚えみたいにまくしたてられていたから、枠にはまって萎縮しているしかなかったのさ。大事な家族の生活もかかっていたし。  だが、チギラさんは僕の言葉が役に立ったと言ってくれたし、奏も何かと頼ってくれる。  そこにもう一人、僕を認めてくれる人が現れた。  僕は僕自身の人生後半戦のライフワークをもう一度考え直していいのかもしれない。賃金をもらうためだけのルーティーンでもなく、年相応の役職といった体裁のためでもない、僕が僕らしく力を発揮することで世の中に感銘を与えられる、創造性と独自性のあるすばらしい仕事ーーそう他ならぬあの第九交響曲のように。 「おお友よ、このような歌(世界)ではない。もっと心地よいわたしたちのための歌(世界)を」  近世ヨーロッパ随一の激動の時代を肌で感じ続けたベートーベンだったがフランス再びの革命と第二共和制も、母国のワイマール憲法も見ることなく亡くなった。もしもベートーベンが近代国家ドイツの黎明を目にすることができたとしたら、どんな音楽が生まれていただろうか。  そんな激動の時代に壮大なスケールの作品を残した偉人と、砂粒以下の僕の人生とを比べるのも恐れ多い話だが、気づくとどっぷり人生の後半戦である。阿久津さんではないがこの世に何か、僕らしい爪痕を残したい。  例えば「宝くじを当てて大金持ちになって今まで我慢していたこと全部する!」なんてのもそれはそれで大きな夢かもしれないが、せっかくなら後の世の人たちに少しでも感謝されるようなことを、世の中をちょっとでも変えられるようなことを。  ……って、あっ、そうだ。

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