82 / 99

きっと見守っている 9

 街路樹の葉が色づき朝晩が肌寒くなってきて、今日はいよいよプロ指揮者との練習の日だ。普段より一時間早い集合時間より少し早めにホールに入った途端、いい緊張感とワクワク感がほどよいブレンドで漂っている。指揮台の向こうの壁には「本番まであと十二回!心を一つにハーモニーを奏でよう」という横断幕が掲げられている。これからプロの有名指揮者に、それも阿久津さんがファンだという指揮者に指導されると思うと自然と身が引き締まるーーいや、畝川先生のレッスンだって十分真剣に臨んでたつもりだったんだけど。  ホールの客席は収納され平たい床の上に本番の配置と同じように椅子が置かれている。先週指示された通り、壁に貼ってあるパートごとの配置表を確認し自分の席に着く。テノールの最後列の真ん中よりややバスパート寄りだ。音程が心配だから後ろに先輩方がいてくれた方が心強かったんだけど、身長順だからな……世間一般では僕は高身長とはいいがたいんだが。  合唱団員は男性も女性もお洒落な人が多いのだが、今日はカジュアルでも平均的に普段よりワンランク上のものを着ている感じだ。服装のことなんか誰も聞かなかったからミーティングの時に「スーツで来た方がいいのか」と思い切って質問したら笑われてしまった……だって聞かなきゃわからないしTPOは大事じゃないか。  発声練習が始まり、それからこれまで練習したことの確認をする。畝川先生は今日は作務衣でもスーツでもなく襟付きのニットとスラックス姿で、今までみた中で一番音楽の先生らしい格好だ。僕は仕事帰りだし新しい服もしばらく買ってないから結局いつもの普段着だ。  午後七時。いつもの馴れたホールの空気がチャイコフスキーコンクール本選会場のように張りつめるーー行ったことないけど。  国内外の大小さまざまなオーケストラやオペラを指揮し、現在は北関東フィルの音楽監督も勤める六道卓氏が颯爽と現れた。セミロングのロマンスグレーに上品な光沢のある黒のスタンドカラーのスーツを気負いなく着こなす「ザ・芸術家」といった雰囲気の都会的な紳士だ。会場の気温と湿度、大気の伝導率が確実に変わった。これがマエストロのオーラってやつか。 「六道です。よろしくお願いします」  指揮台に立ったマエストロは頭を下げ、譜面台の上にスコアを広げた。 「二時間しかありませんから前置きなしに始めますよ。一度、曲の最後まで通しで聴かせてもらいます。立っていただけますか」  マエストロの言葉と両手のひらを上に向ける仕草で僕らは一斉に立った。所作の一つ一つに洗練されたテンポ感を感じる。 「ピアノで弾いてもらってもいいんですが、せっかくだからどなたか最初のバリトンソロだけ、歌えませんかね?」  六道先生はぽかんとする皆の顔を見渡した。  プロの奏者や声楽家は、譜面さえあれば初見でもそれなりのレベルで演奏できると聞いた事があるのだが……プロの指揮者って100パーセントのアマチュア合唱団相手でもこんな無茶振りするもんなの?  畝川先生は笑って、「千木良くーん」と、当然のように元弟子のチギラさんを呼んだ。 「前に出て、歌って」  チギラさんは大真面目で「大学の新人コンサート以来ですが……譜面は見ていいですよね?」と聞き返した。 ーーえ、チギラさんがソロ歌うの?すご……  合唱団と兼任なので、持ち場を離れない程度に最前列に出た彼に激励の拍手が飛ぶ。  今日は暗色のロングカーディガンにワンピースに見えなくもないロング丈のドレスシャツだ。スカートやワンピース姿も見慣れると、この人に似合っているしバランスやセンスの良さが感じられるから不思議だ。  そして合唱の日のファッションは、バッグのタイカレー柄に合わせてるんだと思う。  マエストロとアイコンタクトをとったピアノの先生が起立のチャイム……ではなく、恐怖のファンファーレの前奏を弾き、チギラさんがあの惚れ惚れするような声でバリトンのソロパートを堂々と歌い、小さなどよめきがおきる。 「フロイデ!」  バリトンソロに応える、僕らの聞かせどころだ。一歌入魂ーー男声合唱の「フロイデ!」が見事にスベる。 「あの、ご飯抜きましたあ?」

ともだちにシェアしよう!