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きっと見守っている 10

「通す」と宣言したマエストロもさすがに手を止めて苦笑した。もちろん気を抜いているわけでも「最初だからいいか」なんて思ってるわけでもない……意識を一点に集中するはずが、僕はチギラさんのソロにおもわず聞き惚れてしまったし、そうでない人は緊張感が空回り。第一声って本当に難しい。 「新入団の人が多いのかな?もし間違えても取って食ったりしませんよ」  笑いがおきる。それにしてもずいぶん気さくなマエストロだ。プロの指揮者というのはカラヤンとかフルトヴェングラーの亜流みたいに気むずかしい人が多いのかと勝手に思って勝手に身構えていたのに。いや、このお気楽で調子に乗りやすくてちょっと短気な、典型的な上州のオッサンオバサン率九十パーセントのうちの団にそんな人わざわざ頼んだりしないか。 「最初の第一声が難しいのはわかります。でも、本番だってたった一回ですよ。みなさん一度リラックスして……はい、集中してもう一度、バリトンソロの後から」  正味二秒でリラックスしろ、なんて相当な無茶ぶりだと思うが基本的に指揮者ってそういう人種だ。演奏する側は要求に応えるしかない。秒速で息を吐いたり肩や腕を脱力したり、そしてマエストロのタクトに合わせてもう一度、僕らは二つの「フロイデ!」に気迫を込めた。彼がまた手を下ろす。 「うふふ。怖いです」  ガクッ、とベタにコケそうになる男声陣。  暗譜もこれまでの復習も(ついでにお洒落も)準備万端で臨んだのに、一旦座って辛抱強く待機している女声陣にも大笑いされる。 「フロイデ!『喜び』ですよ。皆さんそんな怖い顔しないで。皆さん一度笑ってください」  僕は正面を向いて素直に口角を上げて歯を見せたが、八割方の人は「昭和男子あるある」で顔を見合わせながら半笑いや戸惑う表情を浮かべた。 「最近、嬉しかったこと楽しかったことを思い出して……いくらなんでも一つくらいあるでしょう。声をあげてもいいですよ。女性も一緒に。さん、し……」  六道先生は真顔で僕らを見回し、指を鳴らしてカウントをとった。 「わっはっはっは!」  六道先生……面白い。みんな今度は自然に笑い出す。 「ほら皆さん、いい笑顔ができるじゃないですか。じゃあ、ソロの『フロイデ』からもう一度。今度こそ最後まで止めませんから」  最初の二声にかれこれ十分近く費やしたが、僕らはこれまでの練習の集大成とばかりに第四楽章後半の合唱部分の十数分間を最後まで歌い切った。  歌い続けるというのは想像以上の難行だ。  もちろん息が続かないとか喉が疲れるといった基本的なこともあるのだが、集中力を持続させるだけで相当なエネルギーが要る。フレーズ単位での練習ではできていた音の跳躍や強弱、細かいパッセージが長い曲の一部となると意外とコントロールできない。長い休符も多いが集中力を保つためにエネルギーがいる。マラソンはペース配分やダッシュのタイミングが大事だとよく言われるがおそらくそれと一緒だーーマラソンを走ったことはないんだけど。  吹奏楽部時代にもここまで長い曲を演奏したことはない。  何度も練習したからできていると思っていた「歓喜の歌」の部分も緊張のせいかブレスがうまくいかなかった。本番は大丈夫だろうかと少し心配になる。  マエストロは僕らの演奏を一通り聴くと頷いた。 「うん、よく練習されている。一旦お座りください」  手のひらを下に下げる仕草に僕らは従い、次の一言を待った。どうでもいいことなのだが、職業柄なのかこうしたさりげない手の所作が美術品級に美しい。畝川先生と女声パート担当の先生たちたち指導陣はホールの側に控えて六道マエストロの指示を聞き漏らすまいと見守っている。

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