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地球は青かったのさ 4
「す、すびばせゔゔ……」
五十男が公の場でいきなり泣き出すという、不快なだけで誰の得にもならないナントカ議員の号泣劇場みたいな事態になってしまった。
志塚さんは「どうしたんですか」としごく真っ当に狼狽え、あとのメンツは呆気にとられて沈黙する人とツボに入って爆笑する人とに分かれた。頼もしい相談相手で人生の先輩(?)という、チギラさんに対して精一杯見せていた虚像も砂と化した。これで名実共に砂男になったので、もういっそ借用書だけ書いて家に帰りたい。
「おいおい兄ちゃん、どうしたよ。何も泣くこたぁなかんべ。な?」
斎木氏が笑いで引き攣りそうになりながら僕の肩を叩いたーーこれが泣きたくなくて、何が泣きたくなるって言うんだよ。戦後世代の人ら、グラインダー並にメンタル強すぎだろ。
「差額で交換していいんなら俺、SS席を買いたいつってた連中にもう一回聞いてみらあ」
「もうすぐプログラムが刷り上がる。例年広告主さんに招待券を渡しているが、例年ならS席のところを今年はSS席に格上げしてもいいんじゃないか」
他の団員さんが色々フォロー案を出してくれ、志塚さんは少し考えた。
「この際、採算のことはおいておくにしても……今度はS席やA席にその分の空きが出てしまいますよ」
「客席のど真ん中に空席ができるよりゃあいいだんべや」
「A席は毎年先に無くなる価格帯です。みんなでもう一回り声をかけたらSもSSも売れるんじゃないでしょうか」
チギラさんも提案してくれた。
「毎年、毎回練習のたびにそう声をかけてるんですよ。それだって客席の九割を埋めるのがやっとなんです。足が出ないギリギリの線で毎年冷や冷やなんですから」
「合唱団員の繋がりで来る人はそうでも、クラシックファンならソリストや指揮者、オーケストラ目当てで来ると思います。それこそ県外からでも。これを機にうちの団もSNS発信に力を入れてみませんか」
チギラさんが力強く呼びかけた。斎木さんがうーんと唸った。
「俺は商売柄、そういったもんのマイナス面しか見てねえから反対なんだが… …このご時世でクラシックファンも高齢化が進んで大半は年金生活者だからな」
「私もインターネットとかそういうのはよくわからないんだけど、演奏のよさが伝われば来てくれると思うわよ。パンデミックの時に孫がインターネット配信の第九を聴いていたもの」
「若い人が来てくれるなら、今回だけ限定でやってみてもいいんじゃない?」
団員さんが口々に言い「私設応援団的なアカウントで発信していいなら、俺やりますよ」
とチギラさんが請け負ってくれた。
「そうだよなぁ。『チケット買っても生きてる予定が未定だからなあ』なんて渋られるようじゃあなあ」
「そこは『演奏会まで生きてろよ』とドヤってくださいよ。なに柄にもなく引いてるんですか」
斎木さんとチギラさんの漫才みたいなぼやきに、僕はしゃくりあげながら不謹慎にも吹き出してしまった。志塚さんと目があってとても気まずかった。
それまでみんなの話を黙って聞いていた畝川先生が、
「僕の方はまだ心当たりがないこともありませんよ。それはそうと、団員をもう少し増やしたいですよねえ」
と、しみじみ呟いた。
「藤崎さん」
「はいっ」
僕はチギラさんが絶妙なタイミングで差し出してくれたティッシュを箱ごと抱えて面をあげた。
「もしこれからもその、例の先輩とやらのことでトラブルに巻き込まれそうなら……」
「いえ、もう連絡も来ないと思いますし」
正直、もうたくさんだ。もしまたどこかでばったり会ったとして、あの人どうするんだろう。きっと悪びれずにあのふてぶてしさを行使し、僕は自分の怒りすら満足に表現できずに丸め込まれて口ごもってしまうんだろうな。
怒りの炎は炎でも僕のはIHヒーターのそれだ。災害に弱くすぐエラーを起こし、傍目からは認識されない。自分自身で行動せずとも、その場にいながらにして世界じゅうの秘境や今日届く商品が検索できる、大量消費IT社会のひ弱な副産物なのだ。
「そうですか。もしもの時は藤崎さん、斎木さんに頼むといいですよ」
「いやあ……遠慮しておきます」
斎木さんは八百屋ではないが何かの家業を持っているらしい。ガテン系勢ぞろいの建設業とか造園業?まさかアウトロー系じゃないだろうな。
「穏便に阿久津さんを見つけ出してくれるとかなら別ですが」
「まあ、場合によっちゃあできなくもねえで」
斎木さんはあっさり答えた。
僕は思わず「え?」と聞き返したが、斎木さんは「俺、別な仕事の打ち合わせがあるんで。その話はまたな」と席を立った。
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