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きっと見守っている 3

 第九の場合はプロのオーケストラを呼ばなきゃいけないから赤字なんか出したらとんでもないことになるけど。いっそ友達百人いるコミュニケーション強者とか、登場しただけで人の輪ができる人気者とか……そういう人だけで第九歌うことにしたらいいのに。  昔は非社交的なりに「一人はみんなのために」なんて生真面目に自分を追い詰めていた少年も色々拗らせ過ぎて、今やすっかり曇りきった(まなこ)のひがみ根性のオッサンだ。  両親に頼るのはさすがにもうやめたい。気の置けないような知人と言えば花田さん、沢村さん、チギラさん……みんな合唱団内だ。奏はまずダメだろう。職場には合唱団に入っていることすら言っていない。あとは東京の姉あたりにダメ元で聞いてみるか……  八方塞がりの絶望的な気分でホールを出ると「藤崎さん」と後ろからチギラさんが声をかけてきた。  チギラさんは大柄な身体を丸めるようにお辞儀をした。 「え?」 「歓迎会の時、話聞いてくれて。奏君、元気ですか?」 「おかげさまで。夏休みの残りで短期のインターンシップに行くと言って東京に戻りました。後期は去年落とした単位を取り直すことに集中したいので、しばらく東京にいるそうです」  なんでも選考ではなく先着順のインターンシップというのがあるそうなのだ。次に繋がる何かいい経験になってくれればと思う。 「また来るから、俺が留守の間に引っ越さないでよ」  と念押ししながら奏は東京に戻って行った。  実は、第九の演奏会が終わって年が明けたら、こんどこそ物件を探そうと思っている。奏がいつ避難してきてもいいように、狭くはなるがちゃんと部屋を用意するつもりだ。相談すればわかってくれると思う。 「奏君、いい青年に育ってますね」 「姉でお役に立てそうなら紹介しますよ」 「ぜひお願いします。演奏会にみえますか?」 「聞いてみます」と答えながら、親の顔がちらっと浮かんで胃が痛んだ。 「いよいよですね。俺も頑張ってチケット売らなくちゃ」  指揮者練の緊張だとかチケットノルマのプレッシャーだとか、僕がマイナスに感じるようなことを逆にプラスに結びつけて考えられる彼が眩しい。  あの絵の教室にポスターやチラシだって置けるじゃないか。 「お友達やお知り合いが多そうでいいですね」  皮肉でもなんでもなく僕が素直にうらやましがると彼は笑って言った。 「そこまで顔広くないんですが、音大の時の友人とか絵の仲間には声をかけようと思って。地元は高校の声楽仲間と教室の……」  うん。ちょっと話題を変えるか。 「バスパートはチギラさんがいて安泰ですね」  チギラさんを絶賛したかったがあれは「歌が上手いですね」と単純な一括りにするようなレベルのものではない。それは素人の僕にもはっきりわかった。  声量もあるし、声質も素晴らしい。いわゆるビロードのような声ってやつだ。人の心を惹き込む訴求力と持ち前の華がある。  音楽の方に進んでいたら今頃、世界的なソリストとして世界中を駆け巡っていてこんな所にはいなかったーーという事はあり得るんじゃないか? 「一人の声だけが聞こえても駄目なんですよ。合唱はみんなでするものですから」  チギラさんはさも当然のように答えた。 「音程が正確な人が近くに一人いてくれるだけで僕ら助かるんです。テノールだって時々誰の声を聞いて合わせていいかわからなくなって、結局先生にダメ出しされる」  これは本音だ。チギラさんが休んだ日のバスパートだってやり直しの回数が倍増するんだから。そんなこと知らないんだろうけど。 「藤崎さんこそ、テノールでよくここまで頑張ったじゃないですか」 「畝川先生のお陰だと思います。チギラさんは高校時代に学べて幸せでしたね。僕は部活なんですが吹奏楽の顧問が鬼で。そこで燃え尽きちゃった感じです」  チギラさんはくすくす笑った。 「畝川先生も厳しかったですよ」 「ええっ、そうなんですか。怒ってるとこなんて想像できない」 「音大目指す子ばかりで将来的懸かってますから、責任感でしょうね。先生も今よりずっと若かったし」 「意外です。人に歴史あり、ですね」  チギラさんにチケット売るの手伝ってもらえないかな……とふと思ったが、チギラさんの売るチケットはあくまでチギラさんの売るチケットだ。  それに、自分の最大のコンプレックスである社交下手が元凶であるので、よりによってその事で頼ったりしたくない。そのくらいの見栄は張っておきたい。

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