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地球は青かったのさ 6
天国の景色というのはこんな感じなんだろうかーー今日は小春日和だ。白樺の落ち葉を踏みながら開けた丘の上の遊歩道を歩いていると、青空に真っ白な雪山、落葉松の赤銅色のコントラストの中点在するコテージ風の建物が見えた。僕は道路沿いの一番広い建物に入った。
僻地のバス停で飲食店を探すチャレンジ番組に出てきそうな、ジビエ料理と無添加ご当地ワインが看板メニューの隠れ家的自然食レストラン。もっとも僕は車だから酒は飲めないし連れは病人だ。
車椅子の唯人さんは予約した席に先について僕を待っていた。僕より大柄だったのに骨と皮にやつれて鼻にチューブを入れ、まるで別人だ。覚悟してはいたものの絶句した。
「これでも余命宣告より持ちこたえている方だよ。こんな事情だから遠方に呼びつける形になって申し訳ない」
笑った表情とのぞいた八重歯だけは一緒に暮らしていた頃と変わらない。
「ナオは元気そうだ。ちっとも変わってない」
「知らせてくれたらーー」
僕は言葉に詰まり涙が溢れた。
「ナオの負担になりたくなかった。元気な俺の姿だけ時々思い出してもらえたらと」
「僕の気持ちも考えてよーー何にも考えずに追いかけなかった事、ずっと後悔してた」
言いたい事はいっぱいあったのに、何も出てこない。ただ唯人さんと一緒の空間にいた。
「たくさんのメールありがとう。この一年、ナオと一緒にいたような気になったよ」
奇跡的に返事が来て、やり取りしているうちにあの送る宛のないメールの話をしたら、ぜひ読みたいから送ってくれと言われたのだ。気恥ずかしかったが、唯人さんに何かしてやりたい思いが勝った。
「家に戻ろう。いや、僕がこっちに来るよ」
「仕事は?第九は?せっかく再就職したのに」
「唯人といられないなら、何やっても意味ない」
「それは困ったなあ」
唯人さんはたしなめるように笑った。
唯人さんは帰郷してしばらく父親の介護にあたっていたが体調を崩すようになった。年明けに父親をに看取ってすぐ、末期がんが見つかったのだと言う。
「告知を受けて混乱しなかったと言えば嘘になるが、今は受け入れて静観している。やり残した悔いもないし、君にも最後にこうして会えた。あのサイトは昔のクラシック仲間が何年かに一度コメントくれたりするから今でも時々見るんだよ。やっぱり俺もナオのこと忘れられなかったのかな」
メールを送った数日後、僕の水口さんの返信にこのレストランと同じ敷地内にあるホスピスの住所があった。
僕は今度こそ何も考えずーーいや、バイト先には一方的に休みの連絡を入れたーー夢中で車を走らせた。
「大変だったんだって?その先輩とやらは見つかったのかい?」
阿久津さんは同期や先輩で、他の人達と疎遠になっていて近況を知らなそうな人のところに何年かおきに現れては、寸借詐欺まがいの事を繰り返していたらしい。唯人さんは時々笑ったり相づちを打ったりしながら聞いていたが、き第九のチケットを返送されたのはさすがに僕だけだった。実質的金銭被害が無かったのも。唯人さんはしばらく天井を向いて考えこんでいた。
「阿久津先輩、何がしたかったんだろう。こんな手の込んだ嫌がらせをされる理由が本当にわからない。僕の知る先輩とはすっかり変わってしまった」
「いや、嫌がらせというのはきっと違うだろうなーーメサイアコンプレックスの変形版、とでもいうのかな」
「メサイアコンプレックスって、自己犠牲で誰かの役に立って賞賛されたいとか……そういうんじゃなかった?僕は迷惑かけられて振り回されただけだ。居場所を探し出しても責任とってもらえるかどうか」
「その辺も意図的なのか結果論なのか……ただ、彼はメサイア的妄想の大風呂敷を広げて、君に賞賛される時間だけが欲しかったんじゃないかな」
「意味がわからない。高校時代の思い出まで台無しにされて」
僕は憮然とした。
「『自己評価が極端に高すぎて周りが持て余す人』っているだろう。彼がまさにそうだと思うんだ。俺は精神科医じゃないから断言はできんが……一種の自己愛性パーソナリティー障害なんじゃないかな」
「上州の田舎にどっぷり染まってるから、そんなややこしいキャクラクター理解できない」
僕がぶすっとすると唯人さんは朗らかに笑った。
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