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地球は青かったのさ 7
「それはそうとナオ。俺がいなくなってもちゃんと恋はしろよ」
今日の唯人さんの言葉で、一番刺さった。
「できる気がしない」
「できるさ。できたら人生の最後にまた幸せになれる」
「簡単に言わないでくれよ。コミュニケーション下手の、しがないバイトのおっさんでしかないのに」
いや、バイトは一方的に放り投げて来ちゃったから……無職かな。
「しがないおっさん、おおいに結構じゃないか。世をはばかる立派な憎まれジジイになれ」
「憎まれるのはやっぱりちょっと」
唯人さんの相変わらずの軽口に、昔に戻った気がした。一年離れたせいでありとあらゆることが変わってしまった。笑いながらも胸が締め付けられた。
食事が運ばれてきた。このレストランは有機野菜の自然食が売りで知る人ぞ知る人気店なのだと唯人さんは自慢した。そう言う彼は玄米スープの単品だけを頼んでそれにも口をつけようとせず、朝食を抜いてきた僕が有精卵の卵とじと十割蕎麦のセットをたいらげるのを嬉しそうに眺めていた。
「食べないの?」と聞くと「薬の副作用で食欲にものすごくムラがあるんだ。自分のタイミングで食べるよ」と笑ったきり結局最後まで手をつけなかった。
「ナオは気持ちのいい食べ方をする。食べる所作も食べたあとも綺麗だ」「……そんなとか褒めてくれるの、唯人だけだよ」
「まあこうしてナオが会いにきてくれたから、俺はその阿久津さんに感謝するよ。君も怒りや後悔なんかで時間を浪費してくれるな」
今まで見せまいと堪えていた涙がそこで一気に噴き出した。妙齢の美人ならともかく、五十男の泣き面なんて汚くて見れたもんじゃない
ーー我ながら情けないと思うが嗚咽が止まらない。せめて唯人さんの前では明るくしていたかったのに。心配した店の人が水を持ってきて背中をさすってくれた。唯人さんは僕が落ち着くのを待って静かにこう言った。
「ナオが心配してくれる気持ちはよくわかるよ。申し訳ないともありがたいとも思う。はたからどう見えようと、俺はそう悪くない毎日を送っている。毎日、散歩しながら日の光を浴びて虫や鳥の声を聞き、部屋に戻れば古今東西の名盤ってやつを片端から聴いている。それに君からの一年分のメッセージ……当分退屈はしない」
唯人さんは静かに話を続けた。ゆっくりと、時折苦しそうに息を継いだりしながら。
「ここで付き添いはできるんだろう?今までの分、ずっと側にいる」
「それはそれで嬉しいけど……できたらナオの第九が聴きたい」
「……」
「ナオは優しいから趣味が違う俺に合わせてくれようとするだろうけど、押し付けることはしたくなかったんだ。俺の言葉を覚えてて、第九の合唱に取り組んでくれてるなんて感無量だ。誇らしくて羨ましいよ」
唯人さんは疲れたようで、休み休み、息を継ぎながらそう言った。
僕は意を決して、ポケットから例のSS席のチケット2枚を取り出し、テーブルの上に置いた。
「これが例の、第九の?生々しいな。ははは」
唯人さんはお腹を抱えて少し苦しそうに笑い出した。
「付き添いの人の分もある。絶対、聴きにきてよ」
「そうだな。医者とも相談になるが、頼み込んでみるよ。ところでナオ」
「なに」
僕は発声練習のように背筋を伸ばし、呼吸を整えた。上半身をリラックスさせて体幹で支え、近く来る本番前、あるいはこないだの指揮者練習の時以上に集中力を研ぎすましたーー彼の言葉を一言一句聞き漏らすまい。そして涙をこぼすまいーー細く深く息を吐いた。
「音楽とは先人が我々に残したもっとも偉大なる世界遺産であり、登頂を目指すべき遠大な未踏峰だーーたとえ、たかが素人の無謀な玉砕に終わったとしても。第九かーーうん、第九って本当にいいよな。本番頑張れよ。いや、頑張りすぎるな」
話し終わる頃には唯人さんはすっかり出会った頃のままの笑顔になっていて、僕があげたチケットを力の入らない右手で持ち上げ左胸に押し当てて見せた。差し出されたもう一方の、枯れ枝のような左手を僕は両手で包み込んでーーやっぱり涙と洟と涎を噴出させながら薄汚く号泣してしまった。
介護の人に連れられてレストランを出る唯人さんを見送って駐車場まで来たら、高原の風景が様になるロングコートの人物が立っていた。僕は目を疑った。
ーーチギラさん?何でここに?仕事や第九やアカリちゃんはどうした?
「約束破りましたね?」
冷たい風に空虚五度が鳴り響きロングコートが揺れた。幻想の中の光景のようでまるで現実感がない。
僕は色々ヤケになっていたので、そのままチギラさんに突進してわあわあ泣き喚いた。
チギラさんは、僕をすっぽりコートで包み込んだまましばらくそのまま立っていた。
コートの中に着たニットの肌触りが良く、日向とムスクのいい香りがした。そしてそれらをオッサンの汚い涙と鼻水で汚してしまったので、このまま魂を抜かれても異議はないと馬鹿な事も思った。実際、さっきから身体の芯が全く欠けたまま惰性だけで動いているのだ。
チギラさんは僕が泣き終わり、すすり上げているタイミングで「生きててよかった……」と、力が抜けたように言った。
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