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地球は青かったのさ 8

 そしてまた今日は新しい日だ。とにかく僕は狭い人間関係の中で僕のもっとも苦手とする分野に全力で取り組まなければならない。 「ナオの演奏会を聴きに行くなんて、高校の吹奏楽部の以来ね。しかもプロの演奏会のS席なんて」  姉に電話を掛けたら心底嬉しそうだった。義務感満載の奏と両親も連れて来てくれるという。ミッションの難易度としては低いが(そして出費も大きいが)ここがクリアできるのとできないのとでは前途の多難さが違うので、とりあえずほっとした。 「やっぱり、音楽好きな人ってずっと音楽が好きなのね。合唱団にいい人いないの?」  姉はどこまでも脳天気だ。「自分の達のチケット代は出す」と言ってくれた事には感謝するが、だからって思いついた事をなんでも言っていいとは言ってない。 「既婚者かリタイアした年代の人ばかりだよ。つか、男でもいいわけ?」 「唯人さんみたいな人ならいいわよ。あたしも最近、自分の老後がそろそろ気になってさ。奏にナオと二人分の心配させるんじゃ可哀想だしー」  こっちはそれどころではない。演奏会後には指揮者やソリストも招待してレセプションという名の打ち上げが行われる。演奏に関するプロの音楽家の講評も聞けるだろう。だが両親が来るとなるとそれを欠席してなんの実りにもないダメ出しの食事会につき合うのが必須条件なのだ。  両親は姉とは違い、決して僕の晴れ姿を楽しみにくる訳ではない。姉と僕に交通とついでの物見遊山の手配をさせ、僕や奏から「わざわざ来てくれてありがとう」とさんざん気遣われてなおかつ優位に立つ心地よさを味わうために来るのだ。それはそれで苛立つし面倒だけどもーーいやこれもひょっとして自己愛ナントカってやつなのかな?  チギラさんと本番後の達成感を分け合えず畝川先生や六道マエストロの話が聞けないと思うと泣きたくなるが貴重な四枚分で背に腹は代えられない。奏も貴重な、しかも全くのジャンル違いであろう友人達にダメ元で聞いてみてくれるという。僕が始めた事で逃げる訳にはいかないのだ。  この一週間、色々な衝撃と無理が重なったせいで心のバランスを保つのがなかなか難しい。カウンセリングの予約を取ろうと思う。  唯人さん。色々あったのだが、今日はいよいよ本番だ。  プロの男性音楽家の正装は黒の燕尾服だが、僕ら一般人はブラックフォーマルに蝶ネクタイをつけて代用する。蝶ネクタイだって僕を含めた音楽家でも執事でもない大多数の一般人は持ち合わせがない。半信半疑で奏のスーツを買った量販店に行ったら買うことができたーーああいうところは本当になんでもあるんだな。蝶ネクタイなんて子どものころの七五三以来だーーいや、七五三は着物だったか?  それにしてもなぜ演奏会の正装って蝶ネクタイなんだろう。きっとそれにはクラシックの本家の国の長い歴史とか深い文化があ……あ、とにかく僕はそれら一式を黒の革靴やなんかと一緒にボストンバッグに詰めた。行ってすぐに合唱団員約百九十余名が登るひな段の設営作業が待っているので朝は普段着。五十路の非力な腰痛持ちではあるが「貴重な若手」と持ち上げられ当てにされている。  ウォーミングアップとリハーサル、団の記念撮影があって本番は午後から。昼食を外に食べに行く時間はないからお弁当持参。街中の商店街に続いてコンビニも潰れつつある謎現象が無いらしいから、おにぎり持っていかなきゃ。  今日は僕らの全力で望む。力が入り過ぎているわけでもなくほどよい緊張感が保たれている.…たぶん。 「初心者によるエベレスト登頂(ただし死人は出ない)」ーーアマチュアが「第九を歌う」とはそういう事だ。コンクール入賞などを目指さない、ごく一般的な趣味のコーラスより格段に難易度が上がる。  六道先生も畝川先生も人当たりは柔らかいが音楽に決して妥協をしない人たちだった。熱意しかない僕ら素人にこれまでの人生経験と音楽哲学をもって全力で指導、あるいは伴奏してくれた先生方、いい演奏を期待して、あるいは応援するためにチケットを買ってくれた人たちーー一応両親も含めてーーに報いるには最高の演奏しかない。毎日馬鹿みたいに練習していた高校生の時はただ「好き」だけでここまで考えて本番に臨んだことなんかなかったなあ。  奏がなんと、エヴァネタで引っ張って友達にB席を一枚売ってくれた。  どうにか首が繋がっていたバイト先で僕も最安席を一枚だけ売った。石井さんに小言を言われた時、正直に「昨年別れた同棲相手が末期ガンでホスピスにいて」と半無断欠勤の理由を話したら、「昼ドラじゃあるまいし、もうちょっとマシな言い訳ないの?」などと呆れられた。  まあわかってもらえるとは思ってなかったので無言で引き下がったのだが、石井さんも何だかんだ有能な上司なので察するところがあったらしく後で、 「さっきは言いすぎたわ。何かできることあったら言って?」  と謝って来たので渡りに船と思い買ってもらうことにした(ますます呆れられたが)

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