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地球は青かったのさ 11
「チギラさんがSNSで宣伝してくれたのもあるが、斎木さんの事務所や招待券を配った広告主さん達に藤崎君の顛末を話したら、皆さんすごく面白が、いや大いに同情してくれてね。宣伝や販売にずいぶんとご協力いただいたんだ」
よ……よかった……本当によかった。
僕は力が抜けてその場にへたり込んでしまった。
「運営総出で走り回ったんだで」
「余ったチケットがあったら当日券に回すから、受付で返券しておいてね」
「あっ、はい。わかりました」
ネタにされたことの是非はともかく、今夜から斎木さんに足向けて寝られないや。
「もう演奏会が赤字になる心配はねえから、ぐだぐだ考えねえで、ぶっつけ本番で思い切り歌えや。目立つとこで思い切り外したところで死ぬわけじゃなし、この先延々と飲み会の肴になるってだけのことだ。ガッハッハ」
確かに「死人の出ないエベレスト登山」だからな。しかしこの人、緊張するって事ないんだろうか……
控え室に行くと、会議用の長机でみんなお昼ご飯の真っ最中だった。食べながら暗譜のおさらいをする人、目を閉じて集中してる人、談笑する人寝てる人……色々だ。
短い時間で腹拵えをして舞台衣装や暗譜の状態を最終確認し(女性陣はおそらく化粧直しも?)、集中力を高めるなど分刻みに近い結構ハードなスケジュールだ。にも関わらず僕は時々回転が止まるレコード状態でぼうっとしてしまう。チギラさんが色々と世話を焼いてくれる。窓側の隅の少し離れた場所に椅子を二つ運んでくれ、リハーサルで新たに直されたり訂正された箇所を楽譜片手に伝達してくれた。傍目から見たら、デフレ時代に量販店の二着で一万円キャンペーンで買ったスーツ姿の僕の方が付き人キャラだろうに。
「スナオさん、お昼は?」
「忘れてた……」
というより食欲なんて全くない。
「開場まだだろ。リハもしてないし、中庭で発声練習でもしてくるよ」
僕が立ち上がりかけると
「駄目。ちゃんと食べないと」
チギラさんが引き止めて座らせ、例のタイカレーバッグの中から食べ物らしき紙包みとタンブラーを差し出した。
「ええっ……?」
本当にお腹空いてないからいいのに……どうしよう。というより。
「それ、チギラさんのお昼じゃないの?」
「緊張で半分しか食べられない」
チギラさんはそう言って顔をしかめた。
「チギラさんも緊張することがあるの?」
意外すぎて思わず聞き返してしまった。彼は渋々頷いた。
「絵に転向した理由にはそれもある。ソリストとしては極度に本番に弱くて……合唱ならまだマシなんだけど」
意外……意外すぎる
「コーヒーは好きでしょう」
「コーヒー?チギラさんが淹れたの?」
チギラさんは「落差あり過ぎ」と苦笑しながらタンブラーを僕に手渡した。
「スナオさん、本当にコーヒー好きだね」
「立派なカフェイン中毒患者だよ」
いや、立派ではないが。僕はお言葉に甘えてありがたくいただくことにした。
まず、香りにすっかり癒された。朝からの色々が液体と一緒に胸からすっと流れ落ちて、僕の中でうまく消化されていくーーきっと、うまくいく。または何とかなる。
「美味しいーー飲んだらお腹も空いてきた気がする」
さっきまで胃袋が四次元にワープしてしまったような感覚さえしていたのに、不思議だ。
「本当?よかった」
チギラさんが心底安心したように笑った。
アカリちゃんとの朝ご飯用に多めに作ったという、栄養のバランスがよさそうなボリューミーなクラブサンドイッチが二つ。僕らはそれを一切れずついただいた。
「ありがとう。美味しい」
「しっかり食べないと声が出ないんですよ。あんまりしっかり食べ過ぎても駄目なんだけど」「うん」
「スナオさん。コーヒーもらっていい?」
「あ、うん」
元々チギラさんのだ。
僕は気を使って飲み口を反対側に回してチギラさんに渡したのだが、チギラさんはわざわざ戻して美味しそうに飲み、最後に唇を形の良い親指で拭いた。
チギラさんはあれこれ聞いたり指図したりする事なしに、ただ僕のことを気遣って隣に寄り添っていてくれていたーー一生に一度レベルの辛いことがあった後なのに、陽だまりと人の温もりに包まれてお腹と心が満たされていく感覚は、紛れもなく幸せそのものだった。
「生きているっていいな」と、まるで地球がまん丸いのと同じくらい当然のことのように心から思えているのっていつぶりだろう。しばらくどこかに置き忘れていた自分の「芯」のようなものがカップを満たすコーヒーのようにひたひたと蘇える。
窓の外は名物の空っ風もお休みで季節はずれの暖かさだった。いや、季節外れと言っても気候変動で年々平均気温(以下略)
模造煉瓦の空間に切り取られた四角い青空に白くて丸い雲がのんびり浮かんでいたーーほんの一時間後、ガッチガチに緊張してぶっつけ本番の恐怖と闘いながら舞台に上がってるところなんて想像もできなかった。
最後の練習の日、当日のスケジュールと一緒に本番中の注意事項として「身動き、私語禁止」「居眠り厳禁」としごく当然のようなことをわざわざ説明されて驚いたが、「逃走禁止」という項目はなかったよな……いや、やっぱりダメだろうな。結団以来数十年の歴史と同じ回数だけの第九演奏会において、この時間のプレッシャーに耐えかねて逃げ出してしまった人は本当に皆無なのだろうか。
唯人さん。
もしかして何もしなければ何も悩まないし何も傷つかずに済むのかもしれないーー僕の中で阿久津さんはヒーローのまま、僕は唯人さんを(本人がそう望んだように)永遠の恋人として思い出に閉じ込めたまま、今頃こんな苦行と戦わずに「年末なのに何で来ないの!」なんて母親にがなり立てられながら、家でのんびりと好きに過ごしていたはずだーーチギラさんが海を越えて連れ戻しに来る事も、彼とサンドイッチとコーヒーを分け合う事もないまま。
「真実が人を救ってくれる」なんてきっと大嘘だ。残酷でしょうもない事実が僕の孤独を深める以外に僕に何をしてくれる?
曲は王宮に射す落日のような第三楽章に突入していた。ここでひな壇を降りたらいくらなんでも目立つ。斎木さんは毎年この楽章で必ず寝てしまうのだという自慢にならない自慢をしていたがーーそれって堂々と語れることなのか?
というより、この状況でよく寝られるなっ!「舞台の上で寝るな」という注意事項は斎木さん用じゃないのか?と、斎木さんに呆れたものだが、今はむしろ羨ましい。
今年の斎木さんは起きているようだが、ここから見える北関東フィルのトロンボーンのファースト奏者と思しき方の頭が心なしかゆらりゆらり……見なかったことにする。
何が正解かなんて音楽の趣味や解釈同様、人の数だけあるしその人にも結局、それが本当に正解かどうかなんてわからないのだ。
六道先生は静かに三楽章の最後の最後の音を結び、静かに、そして延々と汗を拭い続けた。
第一、二楽章は三楽章とは対照的に「動」の楽章だったから先生はまるで神おろしのシャーマンのようにダイナミックに動きでオーケストラを鼓舞し続けていた。燕尾服の中のワイシャツもウエストコートもヨレヨレだ。指揮者の正装が燕尾服って、意外と不合理だ。
その間に華やかな衣装をきちんとつけたソリスト達が入ってきて観客席から拍手がおきる。
マエストロは山頂アタック前日の植村直美のような決意と気迫に溢れる表情でーーもちろんそんなもの実際に見たことはないーー念を送るようにオーケストラと合唱団をゆっくりと見回し、頷いた。
「恐怖のファンファーレ」と呼ばれる、第九ではおそらく『歓喜の歌』の次に有名な第四楽章冒頭。
ヴァイオリンや木管が第一楽章から第三楽章までの主題を繰り返すたびに低弦が「そのような歌ではない!」と打ち消し、やがて『歓喜の歌』の主題が聞こえてくる。
ここまでどうにか逃げ出さずに済んだ。観念してこ無事にこの時間が終わってくれることだけを祈らねば。僕の腕にそっと触れた人がいるーーチギラさんだ。
そこで初めて気づいたのだが、僕はいつのまにか椅子がガタガタ鳴るほど震えていたようだ。欠席者の出たバスパートが本番前のリハーサルの最後まで立ち位置を調整していたのは見ていたが、男声最後列の僕がバスパートとの境でチギラさんが隣にいたことにすら気づかなかった。
驚いてチギラさんを見るとチギラさんはまっすぐ前を見たまま腕を背中に回し、ポンポンと触れた。あがり症で転学部したなんて想像もできない、落ち着き払ったチギラさんの美しい横顔のラインを眺めていたら不思議と心が穏やかになった。
僕は姿勢を戻し、丹田を意識してそっと、ゆっくりと息を吐いた。弦が優しく「歓喜の歌」の旋律を奏で、ファゴットが癒し系のオブリガートで応えるーー震えが止まった。
恐怖のファンファーレの再現。バリトンのソリストとともに合唱団が起立するーーテレビ中継なら暗転から一斉にスポットライトが当たる部分だ。
「オー、フロオーーーーォインデ!ニヒト ディーゼ テーネ」
ここはバリトンの独壇場なので、六道先生も手を休めて聴き入っている。時々オケで合いの手を入れる。
「ゾーンデルン ラースト ウント アンゲn……」
さあ、いよいよこの次だーー六道先生が男声陣にアイコンタクトをとるーー今日はテノールの助っ人に入ってくれている畝川先生に「ここだけ決めれば」と言われていた男声合唱の冒頭部。他の先生方も合唱団の一員として今日は一緒に歌ってくれている。
体の力を抜き、体の奥を吸気で満たす。
「フロイデ!」「フロイデ!」
……思いっきり声が裏返る。外してしまった!
「フローォ「フロイデ!」」
「フロイデ シェーネル ゲッテルフンケン……」
もう止まってはくれない。
「ダイネ ツァオベル ビンデン ヴィーデル……」
女声合唱が加わる。この部分は一番最初に教わったっけ。
七ヶ月前、四半世紀ぶりのドイツ語に頭を悩ませたことが懐かしい。ソリストのアンサンブルの後、バスが「ヤー!」と答え合唱がそれに続く。六道先生の指揮が指揮者練習よりもリハーサルよりも明らかに速く、あんなに練習した歌詞か……口が回らない!みんなどうしてついて行けるんだ?
智天使ケルビムは神へと続く門前に厳然と立ち、オケは下降音階で雪崩れ落ちる。池田屋の大階段がつるつるの坂に変わり、新撰組も攘夷志士も揃って「ズコーッ」天下なんて簡単に取れないし、正義なんかそうそう通らない。それでも僕ら、懲りずにどこかで諦めてないのはなぜなんだろうね。
「フローーー、フローーー、ヴィー サイネ ゾーンネーン……」
今度はテナーのソロが男声合唱を先導する。
「ラオフェット、ブリューデル、オイレー、バーー「ラオフェット、ブリューデル、オイレー、バーァン……フロイディッヒ……」」
男子の本懐「ラオフェットマーチ」も歌い損なってしまい、僕のモチベーションはすっかりガタガタになった。そりゃ本番直前まで色々ありはしたけどこれまで、週に一回練習に通い続け、家でも復習して……この半年以上の間、僕のプライベートのほとんどが「第九」だった。リハーサルは出損なってしまったけど自分なりに発声練習はしたし、これまでの練習が本番で少しは生きてくれるんじゃないかと思ったんだがやっぱり駄目みたいだ。
意気消沈ーーここから先は口パクでいいや。
人生最初で……もしかしたら最後の第九演奏会かもしれないのに。
「ベートーベンの真骨頂」とも言われる器楽アンサンブルによる間奏部が終わり、歓喜の歌の前奏部で三度鳴らされるホルンのファンファーレーー天 の門が開く。
一回目でチギラさんの柔らかい、大きな手が僕の手を包んだ。僕らは最後列で、前列の陰になり誰からも見えない。チギラさんが一瞬こちらを見てちらりと微笑んだ。二度目……三度目……口から深く息を吐き、鼻から吸う。さあここだ。
「フロイデ シェーネル ゲッテルフンケン トホテル アウス エリージウム」
僕はチギラさんと手を繋いだまま、みんなと声を合わせた。
「ヴィル ベトレーテン フォイエル トゥルンケン、ヒンムリッシェ ダイン ハーインリッヒトゥム」
体の中で浮き上がってふわふわパタパタしていた何かが、胃の腑の下まですとんと落ち着いた。発声は丹田だとか何とかーー発声練習の時に畝川先生にさんざん言われていたのはこのことか。本番中にいきなり会得しちゃった?
「ダイネ ツァオベル ビンデン ヴィーデル ヴァス ディ モーデ シュトレング ゲッタイルド」
でもまあ仕方ないかもしれないよな。だって僕なんだもの。
「アーッレ メンシェン ヴィルデーン ブリューデル ヴォー ダイン ザンフテル フリューゲル ヴァイルト」
今さら何だが、いい歌だ。ちょっとだけ涙が出てきた。
ベートーベンの生きた時代、絶対君主制だったヨーローパに戦争と市民革命の嵐が吹き荒れていた。最も大きな出来事はフランス革命で、ドイツ人であるベートーベンも国の外から伝わってくる新しい時代の息吹に大きな期待と関心を持ち続けていた。
晩年のベートーベンが集大成の、そしてもしかしたら最後のーー実際そうなってしまったがーー交響曲に音楽史上初めて「合唱」を取り入れ、若い頃に感銘を受けた思想家、シラーの詩に三十年越しで曲をつけた。四声の合唱にソリスト、そしてオーケストラ。クラシックの数ある大作の中でも類を見ないフル編成中のフル編成。
テーマは「苦悩から歓喜へ」
彼は年々進行する聴力の衰えに悩まされ、一度は死も考えた。絶望を乗り越えて自らの絶対音感だけを頼りに奇跡のような創作活動を続け、九番目の交響曲に取りかかった頃はオーケストラの音もほとんど聞こえない状態だったという。
字幕も手話通訳もない時代、芸術家気質も災いして名声と反比例するかのように孤立老人まっしぐらだった。
若き日のベートーベンを感動させたシラー先生は晩年に変節し、自由と市民の国フランスが選んだのは王政復古からのナポレオン帝政だった。ベートーヴェン自身、貴族令嬢に恋しては何度も振られている。
そんな世の中に納得出来ず爺さんになってもどこか青臭く、「中二病」「黒歴史」として恥じて封印することもなくあれやこれやを乗り越えて完成させたのが(シラーの詩の)壮大な二次創作。それが「第九」こと交響曲第九番なのである。そしてそれこそが大作曲家であり偉大なる芸術家たる所以だ、と僕は思っている(違うかもしれないけど)
僕らだって自分の「イタさ」に凹まないことが大事なんじゃないだろうか。見た目やハウトゥの問題ではない。自分の中にオリジナルの芯を……「真」を持つことが大事だ。
「ザーイドウムシュルンゲン、ミーッリオーネン」
歓喜の歌のきらめきと熱狂から一転、バスが重々しく歌い出す。祭りの後に星空を見上げるような、厳かな中間部。
この曲が人類史に残る凄い曲だということは作曲者自身、自負はあっただろう。だがその二百年後、遠く離れたアジアの島国の年末、テレビやショッピングモールのBGMでクリスマスソングと一緒に流れ、各地のアマチュア合唱団がこぞって演奏会を開くーーそんな狂奏曲がくりひろげられているとは夢にも思わなかったはずだ。
気難しいひとだとも言うけど知ったら「ニヤリ」くらいはしてくれるかもね。
ひざまずくね、世界よ。空の向こうに大いなる存在を感じるね。
「ムス アイン リーベル ファーテル ヴォーーーーーネン……」
星空の彼方に飛び立つ宇宙船のように、小瓶につめたささやかな僕らの祈りが別世界の遙か彼方にきらりと光って消えてゆく。
「ザーイド」と、天啓を告げるアルトの歌声とともに四声がが複雑に絡み合う二重フーガが始まる。「ともにあれ、幾百万の人々よ」「喜びよ、楽園から来た乙女よ」それぞれ違う人生を生きてきた違う人たちの違う歌声が二つの主題を交互に、それぞれ違う旋律で歌いながら壮麗な天の伽藍を紡ぎ出す。
「ディルガンツェンヴェーーーーーーーーーーーー」
終盤部、ソプラノの最高音のAのロングトーンにテノールが続き、アルトの主題と男声部の輪唱が始まる。ソプラノだけはこの後、最後までほとんどAのロングトーンなのである。合唱だからカンニングブレスもできるが「軽く天から降るように」ーー主役でもないのにトチると目立つ、元裏方金管吹きとしては他人事ながら泣けてくるパートだ。
夏頃までは音量や音程に四苦八苦していたソプラノのお姉さま方だが、地道な発声練習のかいあって本番ではピンと張りつめた天蓋のように微動だにせず、僕ら天の使者の輪唱のために地球を投げ続けている。
敗戦後の混乱期、現在のNHK交響楽団が団員達の年越し資金集めのために開いたコンサートーーその演目が第九だった。それが日本における「年末の第九」の元祖と言われている。
大切な人を失い街も家も焼かれ、不確かな未来と自由だけがあるーーベートーベンが人生の最後に命と魂を捧げて描いた壮麗な歓喜の音楽はそんな人々の心にどう聞こえただろう。
それから八十年近く。今やDNAレベルで刷り込まれている年末の第九だが、高齢化や団員不足で存続が難しい合唱団も出できている。それが歴史の流れなら仕方がないが、せっかくだからせめて百年目までは歌っていたいじゃないか。大指揮者チェリビダッケだって「昨日交響曲のレコードを聴いた者よりも、今朝髭を剃りながら鼻歌を歌う者の方が音楽の真髄の近くにある」と言っていることだし。
「ザイドウムシュルンゲン、ミリオーネン!ディーゼンクスディルガンツェンヴェルト!ディルガンツェンヴェルト!」
Seid um shulungenーー英語に訳したら「be together」とでもなるのだろうか。違うのかもしれないけど。日本語だと「もろともにあれ」または「抱き合え」なんて意訳もされたりするけど、僕なら「肩を組もう」とか「共に生きよう」とでも訳したい。同じ意訳ならこの方がアジア人的にはぴったりくるような気がするんだけど。
「ザイドウムシュルンゲン!ザイドウムシュルンゲン!」
合唱団が熱気とともにソリストを飲み込む。
「ディーゼンクスディルガンツェンヴェルト!ディルガンツェンヴェルト!ディーゼンクスディルガンツェンヴェルト!ディルガンツェンヴェルト!」
僕の心の中では幼い頃の奏が笑顔いっぱいに、ツーステップのスキップで駆け回っている。六道先生が「第九は歓喜の音楽でもあり、踊りの音楽でもある」と言ったのがここにきてわかったような気がする。
「フローイデ、シェーネル、ゲーーッテルフンケン、ゲーーッテルフンケン!」
マエストーソの合唱部分の終結部。オーケストラは一転、プレスティッシモで加速しモジュール部分を切り離した惑星探査船のように大団円に向かう。楽聖に与えられた役割を終えた僕らはミッションの大成功を確信して見守っている。
六道先生は汗を振り飛ばしながら神懸かった仕草でタクトを振り続ける。ワイシャツどころか燕尾服までもびっしょり濡れているのが壇の上からでもわかる。先生の高速タクトが印を結ぶように三度空を切った。
六道先生は虚空を見つめてふっと息を吐くと指揮棒を下ろし、僕らに向かって笑みを浮かべ小さく頷いた。僕らの安堵とともに先生越しの暗闇から「ブラボー」の声が飛んだ。そして満場の拍手。
僕は感動のあまり目頭が熱くなるのでも達成感と高揚感にうち震えるのでもなく、客席にお辞儀をする六道先生の背中を放心状態で眺めていた。ふと我に返って隣のチギラさんを見た。チギラさんが僕の横顔を見て満ち足りたような顔で笑っていた。僕もつられて笑い返した。汗でびっしょりの手はまだ繋がれていた。
僕は確信したーー今回と同じ山を、来年も僕はまたきっと登っているだろう。やめときゃよかったとか、何でこんなに難しいんだとかブツブツぼやきながら。
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