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第4話

「ご飯だよーっ、帰っといでーっ」 横丁から子供を呼ばう声がして、舟而と白帆は目を開ける。 二人は廊下の冷たい床板の上に涼を求めて倒れ込み、そのままぐっと深く眠ってしまっていた。 その時間はさほど長くなかったが、家の中に差し込む夕暮れ色には藍色が混ざり始めている。 「いちかけ、にかけて、また明日っ!」 「しかけ、ごかけて、また明日っ!」  勝手口の向こうの路地から子供たちの飛び跳ねるような声が聞こえてくる。舟而は目を弓形に細め、改めて白帆を抱き寄せて、その黒髪を鼻先で掻き分けながら訊く。 「お前さんも、日が暮れるまで路地で遊んだのかい」 「私は芝居小屋の子供ですから。大人たちに世話されて、ずっと芝居小屋で遊んでいました。小学校へ上がっても、同い年の友達と遊べたのは放課の少しの時間だけで、学校を出るなり小屋へ行って、疲れて眠りながらお顔をしてもらって、舞台の袖で宿題をやって、出番になったら舞台へ出て。小屋を仕舞うまでずっと袖や楽屋にいました」 「それはそれで楽しそうだ。賑やかだったろうね」  年嵩の父親や、親子のように年の離れた二人の兄や、多くの弟子たちが、おかっぱ頭の小さな白帆を追いかけ回して、強引に可愛がる姿が目に浮かぶようだ。 「ええ。純情可憐な赤姫(あかひめ)も、貫禄たっぷりな揚巻(あげまき)も、立ち回りを演じる妖艶な悪婆(あくば)も、全部袖から観て憧れました。それに役者は喜怒哀楽が激しいところがございますでしょ、だから楽屋で大人たちを見上げて過ごすのも、なかなか面白うござんした」 白帆は舟而の肩に頭を預け、裾を乱したまま、太腿まで露わにした足を舟而の足に絡めつつ、子供時代を懐かしむ。  舟而はその太腿をゆっくり撫でながら、白帆の思い出話に耳を傾けた。 「先生はたくさん遊びましたか」  白帆が触れる近さにある舟而の顔を見上げる。応えて舟而は白帆を見下ろし、目を弓形に細めて見せた。 「遊んだ。庭の老松の鱗を剥がして祖母にこっぴどく叱られたり、池に()()で作った筏を浮かべて冒険に出るつもりがそのまま底まで沈んだり、鳥黐(とりもち)を振り回してお夏の髪にくっつけてとっちめられたり。……本を読める年齢になるまでは、まあ、いろいろやったよ」 舟而も白帆の肩を抱きながら、目を弓形に細めて子供時代を懐かしんだ。 「その頃の先生と一緒に遊んでみたかったです」  白帆は幼い舟而を抱くように、舟而の身体へ腕を回した。 「今、これだけ遊んでいるのに、まだ遊び足りなかったかい」 舟而は白帆の口を吸い、白帆は舟而の首に腕を絡げ、そのままもう一度遊んだのちに、二人はようやく茶の間に落ち着いた。  お夏の位牌へ新鮮な水を供えて手を合わせてから、豚肉(とんにく)の醤油漬けの焼いたものと、冬瓜の葛がけをご飯と共にちゃぶ台へ並べる。 「白帆は料理上手だ」 茗荷の爽やかな香気が効いた冬瓜の葛がけを口に含み、舟而は目を弓形に細める。 「先生は褒め上手です」 白帆は切れ長な目を細めた。  夜風が吹き込む縁側の向こうには微笑むような三日月が浮かんでいた。 「綺麗な月ですねえ」 「ああ」 風呂を浴びて帰って来て、白帆は寝間着姿で縁側に座り、舟而はその膝に頭を乗せて、紺碧の空を見上げる。  舟而は白帆の膝枕に寝転がったまま、白帆の役者の癖に荒れている手を掴み、その指の一本一本にそっと接吻した。 「お前さん、少し働きすぎじゃないだろうかね。役者がこんな手をして」 舟而は白帆の鏡台からクリームを持ってくると、その手に丁寧に塗り込んでやった。 「私、先生のお世話をするのが好きなんです」  白帆は頬を染め、俯いてそう言った。  次の日も、白帆は身拵えをすると、御飯を炊き、味噌汁を作って、さらに豆腐屋へ走って油揚げを買ってきて焼いたものを並べる。  朝飯が済むと、書斎に籠もる舟而に濃く淹れた煎茶をたっぷり淹れて、自分は両襷にあねさんかぶりで家中を上から下へ、はたきを掛け、箒を当て、雑巾を押して、糠袋で磨く。  さらに門の前も掃除して水を打ち、道行く人に挨拶をしてから、大急ぎで戻って来て買い物かごを手にすると、舟而の書斎の入り口に手をついた。 「では先生、行って参ります」 「ああ。あとで観に行くよ」 「お待ち致しております」 軽い接吻を交わして、白帆は繁柾の下駄に足を入れ、吾妻橋を渡って浅草の芝居小屋へ行く。  舟而は白帆が作っておいてくれた焼きおにぎりを食べて昼食を済ませると、原稿に目処を立てて、多くの観客が押し掛けている躍進座へ行く。 「よっ、銀杏屋っ!」 大向こうから屋号が飛ぶ中、白帆は花道を右へ左へふらつきながら歩く。世話女房実は蛍の精だった白帆は、命が尽きる前に旦那の前からふらふらと飛び去って行くという筋立てだ。 「ん?」 いつものように二階席の一番後ろで、左肩を壁に預けていた舟而は、違和感を感じて壁沿いに最前列まで移動し、花道を歩く白帆の姿を目で追った。  ふらつくだけではなく、時々は床に手をついて、ほんの一ト息だが休憩しているようにも見える。  いつもより時間をかけて花道からはけて行くのを見送って、舟而は観客に気取られないよう気をつけながら楽屋へ走った。  舟而のほうが先に楽屋へたどり着き、白帆は何人もの弟子に支えられて戻ってきた。  二つ折りにした座布団を枕にかつらを外しただけ、羽二重も頭に巻いたままの姿で寝かせ、弟子たちが衣装の帯を緩め、扇子で風を送り、慌ただしくなった。  白帆は目を閉じ袖で口元を覆っている。 「白帆、どうした?」 「景色が独楽のよに回ります……。耳が……」 「耳が?」 「右の耳が聴こえません」

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