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第5話
真っ白なキャラコ の白衣を着た医者が、同じくキャラコの丈長のワンピースを着た看護婦を従えて、せかせかと楽屋へやって来た。
白帆は気分の悪さに目を閉じたまま、寝ているのに目が回って気持ちが悪い、耳鳴りがすると、ぼやけた声で訴える。
「白帆丈、まずは眩暈を止める薬を使いましょう」
腕に点滴を受けてしばらく、少しずつ自分の頭蓋骨の中で脳みそが独楽 みたいに回転しているような眩暈は治まってきた。
次に医者は白帆の胸をあらわにして聴診器をあて、白魚のような手に触れて脈をとる。
左右の耳の中をライトを当てて覗き込み、両手で挟むようにして頬に触れ、下瞼を押し下げ、口を開けさせて奥まで覗いた。
「回転性の眩暈と耳鳴り。疲れが出たんでしょう。こういうときは栄養のある消化のいいものを食べて、気持ちを楽にして、よく寝るのが一番です」
弟子たちが濡らした手拭いで白帆の額を覆っているとき、楽屋を出る医者が親方に目で合図をして、親方に舟而も目で呼ばれ、廊下の端で立ち話をする。
「白帆丈の右耳の予後は、治る、今よりよくなるが聴力低下や耳鳴りの後遺症が残る、聴力を失ったまま耳鳴りも続く、いずれも三分の一ずつの確率です」
舟而は目を見開き、顔を突き出す。
「待ってください、それは三分の二の確率ですっきりとは行かないってことですか」
医者は頷き、舟而は眉間に皺を寄せた。
「対処が早かったから、幾分よくなる確率は高いですが、さらに治る確率を上げたいなら、とにかくしっかり休ませること。気持ちを楽にさせることも肝要です。その手配はできますか」
親方も舟而もしっかり頷いた。
「大丈夫です。少し寝れば治ります。降板なんて大げさです」
白帆が身体を起こそうとするのを、親方と舟而で押し留めた。
「無理を重ねたら、却って治りは遅くなるよ。親方がおっしゃる通り、ここは覚悟を決めて、しっかり休んだ方がいい」
「でも……っ、先生にアテ書きして頂いたお役です。最後まで私が演じます」
「白帆がいい子にしていたら、またアテ書きをしてあげるよ。ここで聞き分けなく、無理をするようなら、白帆が舞台に立つ脚本は書かないことにするよ」
優しく黒髪を撫でながら話して聞かせ、ようやく白帆は降板を了承した。
白帆を自宅の寝間に敷いた布団へ落ち着かせて、舟而は割烹着姿で土間に立った。とても片襷 に前掛けなどという姿で臨む勇気はなく、見たくれよりも実用性を重視した。
そして、いつも白帆が頼っている『三百六十五日毎日のお惣菜』(櫻井ちか子・著)を開き、頁を繰る。
「ふうむ。消化がよい食べ物、かつ栄養のつく食べ物、か。ビステキ は消化がよくなさそうだし、ス チューで栄養はつくだろうか。……ああ、これならいいだろう」
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芋 粥
米 二合 、水 八合 の割 で火 にかけます。米 の少 し煮 えたところへ薩摩藷 と鹽 とを入 れ、藷 が軟 かくなつたらば火 を消 し、蓋 をして十分間程 蒸 して置 きます。
薩摩藷 は五分 位 の賽 の目 に切 り、鹽 水 に浸 けて灰汁 を出 しておくのです。
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「この櫻井ちか子先生って人は、藷を五分の賽の目に切るなんていう重要事項を、どうして先に書かないんだろうな。順々に書けば、読みながら料理できるだろうに。僕の小説みたいに人をだましてやろうというのでなければ、物事は時系列順に書き記すべきだ」
舟而は口を突き出し、サツマイモに危なっかしい手つきで包丁を入れる。コト……ン、コトン、コットンと包丁の刃がまな板にあたる音が土間に響く。
「丸い物を賽の目に切れというのも変な話だ。どうやったって、四角くなるのは真ん中だけじゃないか。どこまで切っても必ずどこかが扇形になる。料理に慣れない者のための説明には足りないな」
首を振り振り、塩水につけた大きさの均等しない賽の目ふうな藷を、少し米が煮えたと思われる鍋に入れ、さて考える。
「塩はどのくらい入れるんだ?」
舟而は自分の両手の中で、右に左に頁を繰った。
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味 の濃淡 、調味料 の分量 などは筆 では到底 満足 な説明 は出來難 いものです。これは各自 の趣味 と再 三の實験 とによつて會得 するより外 仕方 のないものと思 ひます。
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「なん……だと……?」
舟而は塩の入った壺を見て、それから米が湧き上がっては沈むのを繰り返す鍋を見た。何度見比べても塩の量を教えてもらえるでなし、自然に口が前へ突き出てくる。
「いくら趣味によると言ったって、指でつまむのか、相撲取りみたいに大きく一掴みするのか、そのくらいの書き方はできるだろう! 大まかな分量を書いておいて、あとは各自に任せると書けばいいじゃないか! 不親切だ!」
とにかく塩を入れなければならない。舟而は塩壺に手を突っ込むと、これと思う量を掴み、鍋の中へ投げ入れた。
「南無三っ!」
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