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第13話

 東京が揺れたのは、それから間もなくのことだった。  浅草一帯は火の海に包まれ、銀杏座と躍進座の芝居小屋はいずれも手立てなく、翌未明に焼失した。  白帆と舟而、銀杏家の人々は休日で、上野松木町の家にいて難を逃れた。  舟而は白帆と浅草公園六区へ活動写真を観に行くつもりが、珍しいことに約束を過ぎても小説の最後の場面が決まり切らず、神田神保町(かんだじんぼうちょう)の自分の出版社から原稿を取りに来た日比が見張る前で、髪の毛を掴みながらうんうんと唸ってい、白帆は日比からもらった亀沢堂のどら焼きを頬張っていた。  白帆の父と躍進座の親方は、こめかみから汗を垂らし、生温い風を気味が悪いと言い合いながら、扇子で風を送りつつ、銀杏家の客間で将棋を指していた。  長兄と次兄は贔屓に招かれて上野広小路へ食事へ出かける途中で仔猫を拾い、助ける、助けないと兄弟喧嘩をした挙げ句、その仔猫を抱えて帰ってきて、門人たちに仔猫を預けて急いで出掛けるはずが、仔猫が次兄の腕に盛大なひっかき傷をつけ、さらには長兄の着物に排泄物をべったりとくっつけたので、すぐには出掛けられなかった。  門人たちは、小さな仔猫のために湯を沸かし、目やにを拭き取り、傷を調べ、排泄を促し、ミルクを飲ませ、全身を温湯で洗ってやって、ボロ布で全身を拭きながら抱いて温めてやり、納戸を引っ掻き回して木箱を用意し、首輪にするための小布を探し、名前を考え、寄り集まって大騒ぎをしていた。  それで助かった。偶然がいくつも重なった幸いだった。  しかし急速に復興が進み、芝居小屋を再建するかどうかの判断が迫られる時期になると、躍進座は早々に解散と決まった。  銀杏座も父親は隠居を決め、長兄に指揮が委ねられていて、再建の道を模索してはいたが難航している様子だった。 「どこも復興、復興で、資金も材料も工面が難しいんだそうです。東京を離れる者も多くて、人手も足りませんし。躍進座の親方もいい加減に歳だから、これを機に隠居したいって」  胡蘿葡(にんじん)蒟蒻(こんにゃく)の煮付と林巻(りんまき)大根を、三人分ずつちゃぶ台へ並べながら、白帆は話した。 「そうですか。座元がそうご決断なされたのなら、仕方がありませんね」 下宿を焼け出され、身を寄せている日比が、三つの茶碗に麦飯をよそいながら頷いた。 「僕は銀杏座へ戻るのも方法だと思うけどね。躍進座は銀杏座から派生しているから、再び合同しようという話もまだ残っているんだろう?」  舟而が味噌汁の椀を三つ運んできて、夕餉の支度が整った。 「でも、銀杏座は旧歌舞伎ですから。私、子供の首を差し出して、いい話だなんて泣くのは、嫌なんです。江戸の頃は事情が違っていたというのはわかるんですけど、今は江戸じゃありませんし」 「子供の首を差し出すというのは、『菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)』の、松王の首実検ですね」 日比は銀縁眼鏡の奥の目を細め、白帆はそっと頷いた。 「一応、新劇をなさるところからも、お話は頂いてるんです。芸術志向で、ご立派だとは思いますけど。……いろいろ考えるほどに、今の私はそういう難しいことではなくて、もっと純粋にお客様が泣き笑いできる情感豊かなお芝居がしたいんです」 「いっそのこと、白帆さんが一座を旗揚げをなさったらいかがですか」 「とんでもない。親方ですら再建を断念するようなご時世に、私が人を集めて一座を旗揚げするなんて、とてもとても。それに私に座元の才覚はありません」 白帆はふるふると首を横に振り、またしょんぼりした。 「私は選り好みをしすぎているんでしょうか」 「今はまだ、遮二無二、イタ(舞台)に上がれるならどこでもいいなんて、そんな探し方をする時期は来ていない。それまでは二代目銀杏白帆の名にふさわしい場所をと、ゆっくり考えていいんじゃないかな」 舟而の言葉に白帆はこくんと頷いた。  特に名案も思い付かないまま、舟而が原稿を書く書斎の窓際で、白帆は雑誌『赤い鳥』を読み返していた。子供向けに書かれた童謡が心に優しく、震災の疲れが今頃になって出て来たかと思う。 「お嬢様、暖炉ってのは煮炊きするためのものなんですか?」 以前、舟而に香油の存在を訊ねていた門人が、小さな声で白帆に本を開いて見せた。 「舟而先生がおっしゃるには、ヨーロッパの暖炉ってのは、日本の囲炉裏を壁に取り付けたよなものらしいよ。だから汁も温めるし、その周りには人が集まって暖まったりもするってさ」 「皆、壁に向かって座るんですかねえ。壁に向かって座るなんて、叱られた子供か、座禅組んでる坊さんみたよになりやせんかね」 「ふふふ、そうだねぇ。あとで先生のお仕事にキリがついたら、詳しく教えていただきましょ」  舟而の書斎は、今や銀杏座の門人たちの図書館として機能して、いつも数名が入れ代わり立ち代わり本棚の前に立ったまま、あるいはどっかり座り込んで本を読んでいる。 「ニャアーン」  餡子(あんこ)と名付けられた、さらし餡のように(しら)っぱけた羊羹色の猫までが、舟而の胡坐の中に丸くなって大人しくしている。  原稿を書く手を休めて書斎の中を見回し、何も一部屋に集まらなくても、と舟而は片頬を上げ、窓際に座る白帆の横顔を見て弓形に目を細め、再び原稿用紙へ視線を戻して万年筆を握ったとき、玄関から声がした。 「白帆ちゃーん、舟而せんせーい、お客様よお!」 次兄の言葉に二人が顔を上げるのと同時に、書斎の襖がザッと開けられた。 「やあ、渡辺舟而の癖に、随分とむさっ苦しい書斎だなァ」  そこには脚本家の森多孝弥が呵々と笑っていた。 「森多先生!」 白帆が座布団を降り、左右の袖を小指の先でさっと払って膝の前へ三つ指をつくのへ目を細める。 「やあ、おきゃんな仔猫チャン。貰いに来たよ」 「は、餡子をでございますか?」 「餡子? 小豆でも炊いたのかい? ぼくは辛党だから餡子は遠慮しとくよ。貰いに来たのはアンタ、二代目銀杏白帆さんサ」 「私、ですか?」 白帆は舟而と顔を見合わせた。

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