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第14話

 舞台の上には、矢羽根模様の銘仙(めいせん)に赤い花柄の帯を締め、井戸の縁に手を掛け佇む白帆がいる。 「千代子さん、こんなところにいらしたんですか。探しましたよ」  舞台上手(かみて)から白いシャツに紺色の紬の着物を重ね、小倉袴をつけた若い書生役の男が現れる。白帆はさっと顔を背け、さらに背を向けた。 「何の御用ですか」 「私との約束をお忘れになったんですか、なぜあんな男と結婚するなどと」  白帆は井戸からゆっくり離れ、それから小走りになって書生から逃げようとして、白く華奢な手首をはっしと掴まれる。 「離してください。人が来たら困ります、離して!」 「いいえ、離しません。あなたが胸の内を明かして下さる迄は!」  白帆は森多の導きで、七宝興行株式会社の演劇部へ移籍した。  躍進座解散の(しら)せを聞いて、森多が七宝興行株式会社の脚本部長への就任を承諾する条件に、白帆の獲得を会社へ提示してくれた。  庶民の喜びや悲しみを情感豊かに描き、涙も笑いも巻き起こすサーヴィス精神旺盛な興行を目指す会社の姿勢も、白帆の希望と合致して、会社との契約は円満に締結された。 「私が演りたいのは、やはり『新歌舞伎』なんです。今の時代はもう新歌舞伎とは、あんまり申しませんけれど、出雲阿国(いずものおくに)から始まった歌舞伎の流れをどこにも止めずに今日(こんにち)まで、お客様にいっとき憂さを忘れて楽しんで頂ける芝居というものを、その時代、その時代に合わせて続けていきたい、そのように思うんです」 楽屋で話す白帆の言葉を、新聞社の文化欄を担当する記者たちが書き留める。  楽屋見舞いの花が並ぶ壁を背景に、新聞記者は目も眩むようなフラッシュを焚いて白帆の顔写真を撮った。 「お嬢様、車が待っています」  その声に白帆は新聞記者たちへ頭を下げた。 「これにて、ごめんくださいまし。本日はお忙しいところ、楽屋までお運びいただきましてありがとうござんした。帰り道もお気をつけて」 白帆が一歩動くと、サッと楽屋暖簾が開けられて、誰かが履きやすいように向きを直してくれた草履へ、その色も模様も見ずに足を突っ込むと同時に歩き出す。  移動する自動車の中でサンドヰッチを食べて、車が停まって扉が開いたら、それがどこか分からなくても素直に降りる。 「あっ、銀杏白帆じゃない?」 「わあ、本物! 綺麗ねえ」 「案外、お背いが高いのね」  耳下の長さで切りそろえた断髪に、釣鐘型の帽子をかぶり、引眉(ひきまゆ)の濃い化粧をして、膝下丈の短いワンピースを着たモダンガールたちが駆け寄ってくる。  白帆は切れ長な目を細め、会釈した。 「こんにちは。……ありがとうございます。今日はお出掛けですか?」 「銀ブラです」 「楽しそうですね。どうぞ……っ」 さらに言葉を続けようとするが、付き添う男達にその肩を抱かれ、背中を押され、洪水に押し流されるようにして、建物の中へ押し込められた。  待ち構えていた見知らぬ誰かに鏡の前へ座らされ、パフをあてられ、目張りを直され、眉を描き足され、口紅を塗り付けられる。 「ではお撮りします。このレンズを見てください。……ああ、いいですね、頬に手を当てられると、ぐっと可愛らしくなりますね。……今度は目線だけあっちの斜め上のほうを見てみましょうか。この撮影が終わったら、おやつは何を食べようかなって顔で。そうです、そうです!」  明るい声に応えて、白帆はキャメラのレンズの向こうに舟而の姿を想いながら笑い、頬に手を当てておどけた。  衣装を変えて、和装、洋装、さらにはポマードで髪を押さえてシルクハットに燕尾服という姿でもフラッシュを焚かれて、ブロマイドの撮影は終わった。  大急ぎで塗りたくった化粧を落とし、どこかから出てきた浴衣に着替えて車に乗り込むと、白帆は森多の書いた台本を広げる。 「赤鉛筆」 その一言で、白帆の右手には赤鉛筆が持たされる。 「『そうはいかないわよ』と下げて念を押すのか、『そうはいかないわよ?』と上げて色を出すのか。……どっちかしらん。先生に伺うにしたって、私なりの解釈がなけりゃ」 でも白帆は結論を出せないまま、隣に座る付き人の懐中時計を見ると小さく溜息をついて、その頁の端を折り曲げ、先へ先へと頁を繰る。  来月の新作も白帆はほぼ舞台の上に出ずっぱり、台詞の数も一番多い。  とにかく最後まで台本へ目を通したところで、先ほど駆け出した七宝座へ舞い戻ってきた。  客の姿が無くなった七宝座は、宵闇に四角く黒い影としてそびえているが、中へ入れば稽古場には灯りがついている。 「おはようございます。遅くなりまして、申し訳ございませんでした」 稽古場の入口で右足を後ろに引き、軽く膝を曲げて、右手の三つ指を床につくだけの挨拶をすると、壁際にずらりと並んでいる俳優たちの前を横切り、すぐに森多へ駆け寄る。 「先生、お待たせして申し訳ござんせんでした。お願い致します」 「仔猫チャン、ちゃんと飯は喰ってるかい? これが終わったら、ビフテキでも食べに行こうね」 話す森多の向こうには、セーラーズボンを穿いた舟而が助手として控えていて、白帆が贈った伊達のロイド眼鏡の奥で弓型の目を細めてくれている。 「はい。お稽古、お願い致します」  レストランで食事を終えて、車で自宅まで送り届けてもらう頃には、白帆は舟而の肩に寄り掛かって眠っている。 「ほら、着いたよ」 慣れない酒も口にして、白帆はゆらゆらと揺れていた。  舟而は背中に白帆を背負い、興行会社の付き人に手伝ってもらって門を開け、玄関を上がり、後ろを支えてもらって二階の寝間まで運ぶ。  敷布の丈もたっぷりとある、ふっくらした布団に白帆の身体を横たえた。掛け布団を掛けてやると、白帆は雲に包まれているように見える。  布団の皮は、もう兄たちが子供の頃に着せてくれた矢羽根模様ではなく、華やかな牡丹が咲き乱れる丹後縮緬だった。

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