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第15話
しかし、朝は一瞬でやってくる。今、目を閉じたばかりなのに、もう空は白んでいて、奇術師に目を眩まされているのではないかと思う。
「おはようございます! 白帆お嬢様、お迎えに上がりました!」
「はーい、今行きます」
貝ノ口に結んだ帯の手先と垂れ先の形を整え、結び目を手で軽く叩いて落ち着かせると、白帆は階下へ降り、書斎の入口で挨拶をした。
「先生、行って参ります」
「ああ、白帆。これを持ってお行き。倒れないように、しっかり食べるんだよ」
「はい、毎朝ありがとうございます」
「気を付けて。夜の稽古には顔を出すから」
本棚の陰で軽い接吻を交わし、風呂敷包みを受け取って、待たせている黒い自動車の中へ、茶室の躙 り口をくぐるように身をかがめて乗り込む。
白帆は膝の上で台本を広げながら、風呂敷包みの中から取り出した大きな握り飯を食べた。
「ふふっ、芋粥はあんなに調子が悪くてらしたのに。……懐かしいよな気がしちまう」
握り飯は舟而が朝早く起きて拵えてくれたもので、甘めの塩加減が美味しい。
握り飯のほか、風呂敷包みの中には、舟而が目を通した後のふっくらと嵩のある新聞と、日比が出版している文芸雑誌『藝術文學』が入っていた。
舟而が目を通した新聞には、ところどころ赤鉛筆で記事が囲んであり、◎、〇、△、三種類の記号で、白帆にとって有益と思われる優先順位が示されている。
「お休みの時間になったら、拝見しましょ」
幕が下りると、白帆は一目散に楽屋へ戻り、昼食もそこそこに新聞と雑誌をむさぼり読んだ。
「まあ先生ったら、ご自分の連載には無印なんて。私は印をつけて下さらなくたって、毎週、一番最初にちゃあんと読みますよ。……日比さんがお作りになる雑誌は、文芸に対する正義感がおありで、日比さんのお性格にそっくり。お元気そう」
舟而の新聞連載小説や、日比が書いた書評などを面白く読んで、昼休憩は瞬くうちに終わった。
立ち稽古が始まって、白帆は森多が急遽書き直した新しい頁を手にしながら、床の上を歩き回る。
「『こんな春霞みたよな気持ち、いつ以来かしら』、『走って行きたいのに、会うのも少し怖いの。ふふっ、女学生みたいね』。……『あら、お待たせ』」
白帆は相手役の前に立つと、黒髪をさらりと揺らして微笑んだ。
脚本と演出の両方を担当する森多が、膝を小刻みに上下に揺らし、吸い掛けの煙草を左手に、鉛筆を右手に持ちながら、机の向こうから鋭い目で見守る中、白帆は懸命に演じる。
森多は眼鏡の縁の上から白帆を見る。
「仔猫ちゃん、ちょっと大人っぽすぎるな。乙女心を思い出す場面だから、もっと弾むように『あら、お待たせ』をもう一回」
白帆は足取りを軽くして、最後の一歩は両足を揃えて軽く飛んで、相手役の前に立った。
「『あらっ、お待たせ』っ」
「よしっ」
森多が小さく呟く声を耳に捉えながら相手役の青年を見上げる。
「『今日もお可愛らしいですね』」
相手役は萎縮している気配だった。感情の抑揚が少なくなり、木偶の坊のように突っ立っている。すぐに森多の激した声が飛んできた。
「馬鹿野郎っ! 仔猫ちゃんの演技、台無しにしやがって! もっと想像力働かせろってんだ! そんなんで女が落とせるかっ! 玄人女しか知らねぇのか、てめぇは!」
白帆は相手役の手を自分の両手に包み、何とか自分が演じる若奥様へ色目を使ってもらおうとしたが、上手くいかないまま、その日の稽古は終わった。
「あら、下駄がない?」
気づいた白帆は廊下に置かれた下足箱の前で、全員に届くような大きな声を上げた。
「誰かっ、誰か、ここにあった下駄を知りませんかっ? 白い印伝の鼻緒をすげた下駄なんですっ!」
「知らないよ」
「さあなぁ」
周囲の反応は鈍く、白帆は見切りをつけて素足で探し回った。廊下を何往復もし、自分の楽屋も隅から隅まで探した。どこにもない。
「あっ!」
誰かの足につまずいて、床に手をついたとき、目の前の塵箱に気当たりがした。
「どうして……」
顔を背けたくなる臭いがする塵箱の中に、ようやっと下駄を見つけた。
味噌汁が掛けられて干からびた若布 がこびりつき、さらには青い黴を生やして汁を滲ませた蜜柑が台の上で破裂していた。
白帆は汚れた下駄を素手でそっと抱き上げた。
大部屋付近にいる役者たちが、白帆に背を向けたまま、壁や天井に向けて喋った。
「いつも他人に履物の世話をしてもらってるから、自分がどこで履物を脱いだかも、わからなくなっちゃってるんじゃないのぉ?」
「自動車でお出掛けの方は、別に履物なんて無くたってお困りにはならないでしょ」
「誰に話しかけてんだろうなあ? 俺たちみたいな学のねぇ大部屋俳優に話しかける用事はないよなぁ。いつもみたいに本や新聞に話しかけたら、紙が返事してくれんじゃねぇの」
どの言葉にも、白帆に背を向けながら顔を見合わせる人たちの笑い声がつきまとっていた。
周囲の俳優たちを学がないなどと思ったことはないが、一つの芝居を作り上げる仲間に向ける親しさは少なかったかも知れない。
「同じ芝居を作るという気持ちが一つならいいなんて、一人ぎめに決めて、自分勝手だった……」
汚れを素手で摘み取っていたら、さらに大部屋の中や物陰から、顔は見せずに声だけが飛んでくる。
「エロで役を獲るよな奴が主役じゃ、気持ち悪くて肩を抱く気にもならねぇや!」
「ホント、ホント。毎晩どこへ行ってんのかしらねぇ! 気持ち悪ぅい!」
「やだねぇ、売女 !」
白帆が息を吸って口を開きかけたとき、背後から穏やかな声がした。
「へぇ、いい話だな。脚本家と枕を交わしたら、役者は主役をもらえるのか?」
「ち、違います。そんなっ!」
白帆が訴えるのを、舟而は弓形に細めた目で受け止める。
「脚本家が役者と枕を交わしたら?」
「は?」
舟而は、授業中に教室中の生徒へ満遍なく問い掛けるように、顔の見えない空間へ話した。
「もし僕が白帆と枕を交わしたら、僕の脚本は会社に採用されるのかな?」
舟而に小さく首を傾げて顔を見られて、白帆は首を横に振る。
「そんな権限は私にはありませんよ、先生。ご存知でしょう?」
「そうかい? でも脚本家と役者が寝ると、役者は主役をもらえるんだそうだから、その逆もまた然りじゃないのかね?」
「え? ええと……」
「全員、よく聞いてくれ。もし今後、僕の脚本がこの会社に採用されたら、それは僕が白帆と枕を交わしたからだ」
「せ、せんせ……っ」
縋ろうとする白帆をそっと手で制して、舟而は言葉を続けた。
「その暁には、僕の脚本を会社に採用させるだけの実力が白帆に備わっているということだから、重々そのつもりで。……もし、白帆以外に僕の脚本を採用させてくれる役者がいるなら、男女問わず喜んで一晩を共にしよう。実力者はいつでも遠慮なく声を掛けてくれ」
さあ、行こう、白帆! 舟而は廊下中に響く声でそう言うと、汚れた下駄を持った白帆を横抱きにして、駐車場に向けて歩いた。
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