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第22話

「僕の感覚は、そんなにずれているだろうか。お高く止まっているかな」 白帆が流しにまな板を置き、鯖の下拵えをしているのを見る。 「ゆとりはあると思います。二人ともが仕事を持っていて、子供はなくて暮らしているんですから。私も会社が車で迎えに来てくれるよな身分になっちまいました」  しかしそう言う白帆の着物は何度も水をくぐっている地味な紬で、片襷に前掛けという姿も変わらない。  消費社会と新聞は書き立てていても、舟而の靴下は白帆が縦横に糸を通してきっかり四角く繕ってくれた跡があるし、元よりの野暮天で、つい気に入ったものばかり白帆に修繕してもらいながら長く着て、衣装持ちということもない。 「庶民の感覚を掴めていない、だろうか」  鯖を目笊に並べて塩を振ると、白帆は舟而の方へ振り返った。 「先生、庶民にこだわりすぎじゃござんせんか」 「え?」 「何が庶民かわかりませんが、先生は『人間のなまの姿』をお書きになる方でしょう。それは庶民だろうが、どこかのお偉い政治家だろうが、成金だろうが、変わらないはずです。ちっと落ち着いて下さいまし」 「あ、はい」  白帆は茶焙じに茶葉を一掴み投げ入れると、台所中に香ばしい匂いを漂わせ、土瓶いっぱいにほうじ茶を淹れた。 「先生はいつだって、一日のお終いはほうじ茶を召し上がる、そういうお方です。大丈夫です」 「……ありがとう。庶民という肩書は表面的なものだ。僕は惑わされていたかも知れない」 白帆から受け取ったほうじ茶を台所の隅の椅子の上で飲み、舟而はそのさっぱりした味が染みわたるのを感じた。 「よし、僕は書くよ」  しかし、またもやプロットは床に散り、舟而は黙って拾い上げることになった。 「参ったな。ここまで混迷を極めることになるとは思っていなかったぞ」  口を突き出しつつ、浅草の万寿屋文具店まで出掛けて原稿用紙を注文していたら、涼やかな声が聞こえた。 「學壇舎の日比と申します。お願いしていた原稿用紙を受け取りに参りました」 「やあ、日比君!」 「舟而先生。お元気……でもなさそうですね」 「わかるかい?」 「左の髪の毛が突っ立ってますよ。何か上手くいかないときの癖が出たということでしょう」 「全くその通りなんだ」 事情を話しながら、上野松木町の自宅へ日比を連れ帰り、書斎でプロットを見せた。  日比は眼鏡の奥の目を澄ませて、舟而の文字を丁寧に辿り、舟而は門人が淹れてくれた茶を飲みつつ、上目遣いに日比の様子を眺めた。  最後まで読み終えた日比は、すんなり顔を上げる。 「わたくしは脚本の専門ではありませんが、大変に面白いと思いますよ。特に二本目のプロットはいいです。わたくしだったら、これ以上プロットを捏ねくり回すようなことはせず、すぐさま執筆に取り掛かって頂きたいですね」 「ふうむ。僕の感覚はずれていないかい? 受賞して変になったりしていないかい?」  日比はプロットと舟而の顔を見比べて、目が眼鏡の奥の目を細める。 「特にお変わりないようにお見受けします。いつもと同じように、一見常識がありそうに見えていながら、実のところしっかりと風変りでいらっしゃいます」 「それは、どうも……。日比君の目に、僕がどう映っているのかということまで、よくわかったよ」 二人は同時に茶碗を持ち上げて口をつけ、上目遣いに視線が合って噴き出した。 「先生、このプロットがそんなに会社に蹴られているのなら、取り下げてウチに回して頂けませんか。小説として書いてください。欲しいです」 「本当かい? 絨毯の上に撒き散らされたようなプロットだよ」 「何か脚本には合わない理由がおありなのでしょうが、小説のプロットとしてはとても面白いです。他所へ出さずに、是非ともわたくしのところへお願いします」 「日比君に拾ってもらえるなら、願ったり叶ったりだ」 舟而は弓形に目を細めた。 「プロットを取り下げる?」 「はい。森多先生がそこまで仰るからには、よほどこのプロットは脚本に向いていないのだと思います。ですから取り下げます」  舟而の言葉に、森多は両頬を持ち上げてニイッと笑う。 「ようやく自覚したか。じゃあ、次こそは使えそうなプロットを、今週中に五本持って来い」 「は? 五本? プロット一本に三日は頂きたいですが」 「どうせクズみたいなプロットしか書けないんだから、紙に文字が書いてあればいい。来週末の会議に間に合うように、ぼくが直してやる。その時間が必要だ」  舟而は大きく深呼吸すると形ばかり一礼し、派手な音を立てて部長室のドアを開閉した。 「舟而先生が、三日で五本っ!」  日比は目を丸くした。  白帆が並べてくれたどら焼きには二人とも手をつけず、睨み鯛のように茶碗の隣にあって、日比が帰った後で白帆の頬が膨らむのは明白だ。 「プロットって、そんなに難しいんですか」  白帆は黒髪を揺らして無邪気に問う。 「会議に掛けるとなると、それなりの形になっている必要があるでしょうね。個人差は大きいですが、舟而先生は三日で一本です」 日比は静かに茶碗へ口をつけ、舟而は口を突き出した。 「話の筋が分かればメモ書きでもいいんだけれども、僕は一晩寝かして読み返す時間が二回は欲しいんだ。同時に書くしかない」 「そんなに難しいご注文なら、お断りできないんですか?」 「上司の命令だからね。焼きおにぎりを頬張りながら頑張るよ」  舟而は肺の中に溜まっていた空気をすべて吐き出すと、両の拳を天井に突き上げた。

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