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第24話

牛牛(ぎゅうぎゅう)会が回し状を回したって?」 白帆の長兄が勝手口から上がってきた。 「これです」  舟而が差し出したざら紙を手にすると、黒目を上下に動かしてさらさらと全文を読む。 「ふむ」 その一言だけで、隣にいた次兄に渡す。次兄は白帆とそっくりな切れ長の目をすうっと細めた。 「ふーん」 その一言だけで、隣にいた門人に渡す。 「へーえ」 「ほーお」 「はーん」 「ひひーん」 「ふふーん」 いつの間にか客間一杯に門人たちがいて、ざら紙は次から次へと手渡されていった。  回し状には振り仮名はなかったが、誰もが当たり前に文字を読んでいる。 「ずいぶん文字が読めるんだな、お前たち」 長兄が部屋の中を見渡すと、一番しんがりの門人がざら紙を手に長兄の元へ歩いてきた。 「そりゃあ、毎日先生に本の読み方を教わってますんで。舟而先生は、お嬢様だけの先生じゃありません、あっしら全員の先生です。それだけに腹が立ちますねぇ」 首を振り振りそう言うと、長兄の手にざら紙を返した。 「その首を振ってるの、ひょっとして僕の真似?」  「ええ、似てますでしょう?」  門人は口元を拳で隠して肩を震わせて見せると、自分の持ち場へ帰って行った。  舟而は口の前に拳を運んでから自分の癖に気づき、少し迷ったが口元を拳で隠して肩を震わせた。 「おお兄様、何かわかったの? ギューギュー会がどんな人たちなのか、わかるの? 電車の人かしらん? 牧場の人かしらん? 私、先生のお力になりたいの。どうしたらいい?」 白帆は眉根を寄せて長兄の顔を覗き込んだ。 「うん、白帆は何も心配しなくていい。怖がることも何もない。全部、おお兄様がやってあげる。お前は何も心配せず、舞台を勤めることだけを考えていなさい」  長兄はニッコリ笑って、白帆の頭をぽんぽんと撫でた。 「じゃあ白帆、今日も頑張って。僕はいつもの場所から見てる」 チョッキのポケットから取り出したキャラメルを一粒、白帆の口の中へ入れてやると、白帆は切れ長の目を細めた。 「はい、行って参ります」 白帆が誰かに持ち上げてもらった暖簾の下をくぐって楽屋を出て行くと、舟而は客席へは行かず、駐車場へ走った。 「白帆にこんな嘘をつくのは初めてだ」 「いいんですよ、安心して舞台を勤めるためのおまじないなんですから」 乗り込んだ車の中には、長兄と次兄、そして日比が乗っていた。 「日比君まで、どうしてだい」 「面白そうじゃありませんか。わたくしは愚民どもが苦しんで地面に転がる姿を見るのが好きなんです」  銀縁眼鏡の奥の目を細める横顔に、舟而は嘆息した。 「僕はきみと対等な関係でいられることをありがたく思うよ」 「対等なんかじゃありません。尊敬致しております。原稿を約束通りにいただける、貴重な作家です」 「それはどうも。これからも約束だけは守るように心掛けるよ」  向かった先は牛込だ。内側を伺い知ることはできない高い外囲いに、銀杏家の粋な体裁とは違ったよく言えば重厚な、悪く言えば少々野暮ったい総門があり、門の両脇には牛牛会の法被を着た男が立っていた。  舟而たちが乗った車を見るだけで法被姿の男たちは門を開け、雪駄を履いた足を肩幅に開き、軽く拳に握った手を身体の側面につけて、頭を下げた。  車が停まるとすぐに銀杏家の門人たちが取り囲み、車のドアが開けられたときには、足元から立派な総門まで、真っ赤な緋毛氈(もうせん)が一直線に敷かれて、その両脇はずらりと『銀杏家』と書かれた法被を着た門人たちが並んでいた。  舟而は刮目したが、長兄も次兄も当たり前の顔で、なぜか日比までもが堂々と緋毛氈の上へ足を下ろす。 「先生、堂々となさいまし」 次兄に小声で教えられて、舟而もさもいつものことだという体裁で緋毛氈の上に革靴を下ろした。  総門をくぐってからは、牛牛会の法被を着た男たちが玄関までずらりと並んでいる。 「役者でもなければ、これだけの視線の中を歩くのは簡単じゃないな……」 小さく首を振り振り、とにかく長兄と次兄の後に続いて、背後に日比を従え、玄関の中へ入った。  客間へ入っていくと、これまたどっしりとした床の間があり、『忠勇義烈』と力強く書いた軸が掛かっていた。  その前に紫色の縮緬の大きな座布団が四つ並べられていて、案内されるまま出入口から二番目に近い座布団に座る。  高台に乗せた煎茶碗が蓋をきせて運ばれて来て、さらに色とりどりの金平糖が添えられた。  長兄も次兄も一言も発せず泰然と座っており、舟而も背筋を伸ばしてそれに倣う。 「これはこれは銀杏の旦那。この度はわざわざお運びいただきまして」 出囃子をつけてやりたくなるような足取りで、軽く背を丸め、足早に恰幅のいい毬栗(いがぐり)男が進み出て来た。愛想よくへりくだった態度で長兄に話し掛ける。 「ご隠居様はお元気で」 「ああ。息災にしている」 「さよですか。それはようござんした」 それでは一席お付き合いくださいませ、とでも言い出しそうな毬栗男は、その代わりに 「本日のご用向きは」 と言った。 「これだ」 低い声と同時に長兄はざら紙を突き出す。 「どういう了見だ」 「へえ、渡辺舟而ってぇ危険人物が、何でもウチのシマで本を作って配ろうとしてるって話でございましてね。これからはペンは剣よりも強しという時代で、ピストルなんかよりも、本を書いて配られる方がよっぽど危ないって忠告をいただきまして、そいつぁてぇへんだってんで、このように書いていただきまして、大急ぎで配ったって訳ですよ」 「誰に忠告を受けた?」 長兄の問いに、毬栗頭は無邪気な笑顔で答える。 「七宝興行の森多部長さんでさぁ!」 舟而は天井を仰ぎ見て、大きく息を吐いた。 「何だかなあ……」 そのとき、長兄の向こうに座っていた次兄がすらりと立ち上がり、真っ白な足袋の裏で毬栗頭の額をぐいっと向こうへ押した。  毬栗頭は子供にいたずらされた蛙のように仰向けにひっくり返った。 「馬鹿だ、馬鹿だとは思ってたけど、本当にどうしよもない馬鹿だね、お前は」 「あ、姐さん?!」  毬栗頭は身体だけでなく声までひっくり返した。 「ここにおわす方をどなたと心得るんだい、日本一の脚本家、渡辺舟而大先生様だよ! ええい、頭が高い、控えおろう!」 「ははあっ!」 毬栗頭と牛牛会の法被を着た男たちは、訳も分からず居住まいを正して頭を下げる。 「今すぐ、回し状を撤回しなさい。そしてちったあその世間知らずを治すために、新聞くらい読みなさいっ!」 腰に手を当てて嘆息する次兄を見上げる毬栗頭へ、日比は静かに用紙を差し出した。 「日日新報(にちにちしんぽう)の購読申し込み書です。こちらへ住所とお名前を」

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