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第26話

「僕は今度こそ失礼します。いい加減、白帆を迎えに行かないと」  舟而は酒を飲んだことなど感じさせない足取りで立ち上がった。  毬栗男の頭をぐりぐり撫でまわして遊んでいた次兄が、顔の横で手を振る。 「誰かに迎えに行かせましょ。楽しいから、ここへ白帆ちゃんも来たらいいんだわ」 その一言で銀杏家の門人数名が名乗りを上げ、白帆を迎えに出掛けて行った。  我先にと出て行く門人の背中を見送っていたら、次兄がその場にいる全員に向かって叫んだ。 「ねえ、誰かぁ! 先生がとらとらで遊びたいってぇ! きゃははっ!」 「一言も言ってませんよ、そんなこと」  長兄は牛牛会の男を手招きし、耳打ちした。 「弟の酒は、以後半分お湯で薄めてくれ」  連れて行かれたのは、牛込神楽町の路地の奥にある、小さな仕舞屋(しもたや)だった。  門もなく、ただ玄関先へ青いものを植えてあるだけという造りで、知らなければ通り過ぎてしまいそうな店だ。 「粗末な家だけど、味は一級品なんだ」 森多はそう言って、すりガラスを嵌めた引き戸を開けた。 「いらっしゃいまし」 藍鼠色の江戸小紋を着た年配の女性が、細く皺のある手をすらりとついて、迎えてくれる。  髪は低く小さくまとめているが、黒々と染めてあり、額はきっかりと剃刀があたっていて、背中を向けたときのうなじは白く、粋筋と思えた。 「こちらのお部屋でございます」 急な階段を上がるとすぐどん詰まりで、左側の襖を開けて案内される。  二間続きの部屋を仕切ってあるらしく、四枚の襖が嵌っていて、どうやらその手前の部屋をあてがわれたらしい。 「虎渓三笑(こけいさんしょう)かしらん」 白帆は幅の狭い床の間に掛けられた軸を見て、切れ長の目を細めた。 「さよでございますよ」 「へえ、知ってるのかい」 「先生に教わりました。隠棲したお坊さんが、遊びにいらした道教と儒教の賢者と意気投合して、いつまでもたくさんお話をなさって、お帰りをお見送りにいらしたときにもお話に夢中になって、自分は渡らないと決めていた虎渓の石橋をついうっかり渡ってしまって、皆さんでお笑いになるというお話だったと記憶してます」  白帆はすらすらと答えて見せ、にっこり笑って黒髪を揺らした。 「ほう。ぼくより詳しいかも知れないな。舟而君の専門は英語、シェイクスピアだと思っていたけどね」 「子供の頃、近くのお寺の蔵書を端から端まで読み尽くして、日本文学は一通り読んだから、英語のお勉強を始めたんだそうです」 「いけ好かないねぇ」 ふんっと鼻息を噴き出すのを、白帆は小首をかしげるだけでやり過ごし、四畳半の部屋の中を見回した。 「それで、先生はどちらにいらっしゃるんですか」 「ああ、まだ買い物に行っているんだろう。これから客が来るからね、その人へ渡す手土産を買いに行ってもらってるんだ。悩んでいるかも知れないな」 「お客様ですか」 「次の脚本で、取り入れてみたいことがあって、専門家をお招きしているんだ」 「専門家……」 白帆が言葉を反芻していたとき、部屋の外から声がした。 「失礼いたします」 女将に案内されて入って来たのは、三十代と思しき男性と、白帆より二、三歳年下と思われる少年だった。 「ああ、よく来たね。さあさあ、入ってくれたまえ」 勧められた床の間前の上席は遠慮して、四枚の襖を背にした場所に座った。  白帆の視線は少年に惹きつけられる。濡れたような艶のある髪と唇、透き通るような白い肌、顔に髪の影が落ちると、それだけで愁いに見える雰囲気。 「わたしの助手です」 男性の説明に、白帆は我に返った。 「すみません、じろじろ見てしまって。お美しい方だったので、驚いてしまいました」 「あなたもお美しいですよ」 「恐れ入ります」 白帆が肩をすぼめ、身体を小さくしてお辞儀をすると、森多が笑った。 「どうしてこんなに自信がないのかねぇ、仔猫チャンは! だから白帆ちゃんの美しさを見せつけるホンを書き続けるんだよ、ぼくは!」 「さ、さよですか……」  白帆は小さく咳払いし、視線を泳がせたとき、料理が運ばれてきた。  料理屋なのに、一品ずつ運ばれてくるのではなく、水菓子まで全部が一度に運ばれてきて、飲み物も瓶の上が王冠で覆われたまま、がちゃがちゃと並べられて栓抜きが添えられて、仲居は畳に手をつく。 「階下(した)に居りますので、御用の際はお呼びくださいませ」 「さあさあ、乾杯しようじゃないか。仔猫チャン、酌をしてくれるかね」 「あ、はい!」 森多はビール、ほかの三人はサイダーを注いだ。 「仔猫チャン、飲まないのか」 「私、不調法なので。お酒は先生が一緒にいらっしゃるときだけと、先生とお約束しているんです。具合が悪くなったとき、ほかの方へご迷惑になってはいけませんから」 「はんっ、用意周到だねェ。本当にいけ好かないよ。ヤダヤダ。……乾杯!」 グラスを掲げてから、それぞれ飲み物で口を湿す。 「美味しそうなビフテキですね」 白帆は表面に焦げ色が付き、中心に桜色が残るビフテキへ箸をのばす。森多も専門家もそれぞれ料理に箸をのばしたが、少年だけは何も口にしない。 「お腹の調子でもお悪いんですか?」 「いいえ。彼はこのあとの実演に備えているだけです。どうぞお構いなく」 「何の実演ですか」 「緊縛です。申し遅れましたが、わたしは縄師です」 「キンバク? なわし?」 白帆は全く初めて耳にする言葉に、首を傾げた。 「人の身体を縄で縛るんだよ、仔猫チャン! さすがの舟而先生もそこまでは教えてなかったかな? ガハハハハ!」 「縄で縛るって、何でですか? 何か悪いことでもなすったんですか」 「それはねぇ、あとで実演してもらったらわかるよ」 空のグラスを白帆に向かって突き出しながら、森多は舟而と違ってとても下手くそに片目を瞑って見せた。

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