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第28話

 階段をほんの数歩で駆け上がってくる音がして、強い音と共に襖が開けられた。 「おや、舟而君。ずいぶんおっかない顔をしてるね。ああ、怖い、怖い。せっかく緊縛ショウの最中だったのに。きみは本当に野暮天だねェ」 森多は顔を横に振ってベロベロバーと舌を出して見せる。 「緊縛ショウ? ……って、おい、白帆っ?!」 真珠色の肌を太腿まで露わに、左足を高く掲げ、右膝を折って横へ張り出して、両手を背中の後ろで縛られながら、純白の長襦袢姿で鴨居から吊り下がっている白帆の姿に、舟而は目を見開いた。 「先生、ご苦労様でございます。手土産は見つかりましたか」 明るい声に、舟而は息を吹き返して駆け寄る。白帆は舟而を見て満面の笑みを浮かべていた。 「え、ええと。お前さん、ずいぶんと……、その何というか、ご機嫌だけれども。どうしたんだい?」 白帆はゆらゆら揺れながら、切れ長の目を細める。 「縄師さんにしていただきました。くるくる回って面白うございますよ」 「面白い……の、かい?」 「ええ。しかも気を使って縄を揃えて括って下さいましたから、きれいでしょう?」  舟而は白帆の全身を改めて見まわす。ついでに肩を押してくるりと回し、縄が食い込む真珠色の肌を鑑賞する間、白帆はまた楽しそうな笑い声を立てる。 「きゃはは、面白ーい!」 「……うーん……。きれいと言えば、まあとてもきれいなんだ……、本来なら耽美とすら言えるはずなんだけれども……。何だろうね、ここまで雰囲気がないというのも、ある種の才能かね……」  舟而に続いて部屋へ入って来た日比は、ためらいもなく白帆へ歩み寄ってくると、白帆を縛る縄を指先で掻き分けながら検分した。 「回した縄を一度背骨の紐に絡めてから、次へ渡す。張力を調整する縄は脇の下から通す……、ふむ。成る程。白帆さん、丁寧な縄師に縛ってもらいましたね。よかったです」 「日比君、見てわかるのかい?」 「ええ。特に足首の上の余った縄の処理。ここまで美しさにこだわっているのは特徴的です」 話しながら、日比は結び目を目ざとく見つけ、縛り上げた順番を見抜いて、十本近い縄をするすると白帆の身体から外していく。解く縄の縄尻が白帆の顔を打たないように配慮する余裕まであった。  最後の後手縄(ごてなわ)が外れるとすぐ、舟而は紬の着物で白帆の身体を包み込んでやる。着物の中で、白帆はほうっと息を吐いた。 「ああ、とても楽しゅうござんした。先生もなさってみたらいかがですか。面白うございますよ」  黒髪を揺らして笑う白帆の頭を、舟而はぽんぽんと撫でて苦笑した。 「僕は遠慮しておくよ。とにかく早く着物を着なさい」 白帆が紬の長着を身体にまといつけ、腰紐を結び、帯を巻き付けて一文字に結んでいる間、日比は慣れた手つきで散らばった縄をまとめていく。 「縄の処理にも特徴が出ています。このやり方は、おそらく黒縄(こくじょう)という縄師によるものでしょう。……白帆さん、この縄師は十五、六歳くらいの華奢な少年を連れて来たでしょう?」 「ええ、緋色の長襦袢を着た、大層艶っぽい……。あら、いないですね」  白帆が周囲を見回したとき、部屋のどこにも縄師と少年の姿はなかった。 「とっくに姿をくらませていますよ。警察などに踏み込まれては厄介ですからね」 日比は銀縁眼鏡の奥の目を細めて見せた。 「い、痛いっ、何だ、何だっ」  大声が聞こえて振り返ると、次兄が森多の腹の上に馬乗りになって、両手を鉤型に丸めてぎゃぎゃぎゃっと森多の顔を引っ掻いていた。 「ウチの大事な白帆ちゃんに、何しやがんだ、てンめぇぇぇぇぇっっっ!!!」 「痛いっ、引っ掻くなっ! おい、誰かこの猫男を退かせ!」 森多が足を振り上げて、馬乗りになっている次兄の背中を蹴り上げようとしたとき、その足を長兄が掴んだ。 「ウチの看板役者を傷つけるような真似をされては困りますね、森多先生」  ニッコリ笑う長兄の背後から、牛牛会の毬栗(いがぐり)男が顔を出す。 「森多先生、こーんばーんはー! この度は、ずいぶんと馬鹿にしてくださいましたねぇ。おかげで銀杏家さんに大目玉をくらいましたよ。あっしの面目が丸潰れでさぁ。今まで、女も、金も、いろーんな後始末を、たーっくさんお手伝いしましたのに、ねーえ?」 怪談話をする噺家よりも背筋を震わせる声と笑顔を森多の顔面に近づける。森多は目を剥き、悲鳴を漏らした。 「ひ、ひいっ! ご、ご、誤解だ。馬鹿になんかしていない! ただ、渡辺舟而の小説が、この世に出てはいけないと。あ、あの、ほら。ほらっ、内容が悪いからね、だから。だから……っ」  その言い逃れに顔を振り向けたのは日比だった。 「ほう。わたくしも随分馬鹿にされたものですね。まるでわたくしに小説のよしあしを見抜く目がないようなおっしゃりようだ……」 日比は白帆を縛っていた縄を両手に持って、弛ませては左右に張って空気を引き裂くような音を繰り返し立てながら、森多のもとへ歩いて行く。 「な、何だ、お前はっ!」 「あなたのような下衆に名乗る名前はございません。わたくしの名が勿体無い」 日比は、きちんと縄を二つ折りにして、縄を重ねることなく揃えながら、長兄が掴んだままだった森多の足をするすると縛った。 「あ、お前っ、八幡町の変態クラブに出入りしてる奴だろっ」 「何のことですか」 「しらばっくれるな、ぼくは知ってるぞ!」 「わたくしは知りません」 日比は涼やかに話しながら、森多の口に猿轡(さるぐつわ)を嵌め、鮮やかな手つきで後手縛りをすると、仕上げに森多の肩を踵で蹴り飛ばして、畳の上へ芋虫のように転がした。 「口は禍の元なんですよ、森多先生」  銀縁眼鏡の奥の目を細め、左右の口角を上げて歯を見せずに静かに笑った。  舟而は嘆息して、小さく口を開いたまま彫像のように動かなくなっている白帆の肩を叩き、手首を軽く引き上げて立ち上がらせた。 「白帆。表通りにタクシーを待たせているから帰るよ」 「は、はい……」 白帆の肩を抱いて出入口へ向かう途中、舟而は森多の前で足を止めた。 「森多先生。僕を世に出して下さったのは先生だ。脚本の書き方を教えて下さったのも。だから非常に残念です。今まで、お世話になりました」  舟而は畳の上に転がっている森多に向かって深く一礼すると、もう後ろを振り返らずに店を出て、白帆と共にタクシーへ乗り込んだ。 「先生……」 「ごめん、白帆。少しだけこのままでいさせてくれ……」 舟而は白帆の肩に目を押し付け、下唇を噛みながら、肩を震わせていた。白帆の肩には熱い水がじわじわ沁みた。

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