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第30話

 舞台の上では舟而の新作『(つい)の女房』が千穐楽を迎えていた。  舟而は相変わらず二階席の一番後ろに立って、左肩を壁に預け、腕を組んで舞台を観ている。  東京オリンピック開催を目前に活気づく空気の中、舟而はロマンスグレーという言葉をそのまま体現した姿で、目尻の皺は優しく、ますます味わい深い男になっていた。 「あれは風の強い日でござんした。私は矢も楯もたまらずに、あなたのところへ駆け出して。……ふふっ、今でも思い出しますよ、軒下にぶら下がった赤いリボン。私が迷わずあなたのところへ辿り着くためのおまじない」 舞台の上の白帆も年齢を重ねてますます艶が増し、ライトを浴びて上質な真珠そのもののように深い場所から輝く。 「赤いリボン、ずっと、ずうっと、持っていてくださいましね。私が迷わずあなたのところへ辿り着けるように、ね」  白帆が細い指先で目尻を拭いながら笑みを浮かべ、そっと首を傾げたところで静かに劇伴が鳴り、幕がゆっくりと閉まって、幕切となった。 「ああ、銀杏白帆は本当にいい役者だ。男も女も、老いも若きも、全部全部、白帆が当代一! 当代一の役者だ!」  いつもなら静かに客席の声を拾う舟而が、満面の笑みを浮かべ、大きな拍手を贈っていた。 「先生が手放しで褒めていらっしゃいましたよ。銀杏白帆は本当にいい役者だ、当代一の役者だと」  楽屋を見舞って日比が報告すると、白帆は両手を胸にあてた。 「本当のことを言ったまでだ」 舟而はそっぽを向いたが、白帆はそんな舟而の手に自分の手を静かに重ねた。 「おや、照れてらっしゃるんですか、先生?」 日比が冷やかすのを、舟而は口を突き出して応戦する。 「う、うるさいな。そういうのをデリカシーがないと言うんだぞ」  舟而の姿に、日比は室内の照明を見回した。それから白帆の真珠色の肌を見て、さらに自分の手の色も見る。 「先生、体調が悪くありませんか」 「ん? 大したことはないよ。少し腹が苦しいような気がするけど、白帆の手料理を食べればすぐに治る。この年齢になると油っ気の多い物は少しもたれるんだ」 そう話す舟而の白目は黄色味を帯びていた。額には汗も滲んでいる。 「すぐに病院へ行きましょう」 「そんな大げさな。家で休んでいれば治るよ」 「お願いします。わたくしの知り合いの教授に診てもらって何ともなければ、それでわたくしの気も済みます。車を手配しますから、すぐに病院へ」 日比は医局へ直接電話を掛けて訴えた。 「わかった。待っているから、すぐに連れておいで」 おろおろする白帆も一緒に、タクシーで大学病院へ向かう。舟而は白帆の膝を枕に横向きになっていた。病院には担架が用意されていて、寝たまま運ばれた。 「ずいぶん我慢されましたな」 四リットルもの腹水が抜き出された。 「なぜここまで我慢なさったんですか」  付き添った日比が眉を顰めるのに、舟而は黄疸の酷い顔で笑った。 「白帆を心配させると思って。千穐楽(ラク)まで安心して舞台に立たせてやりたいじゃないか」 「せめてわたくしには言ってくれてもいいでしょう」 「白帆の舞台を観に行かずに寝ていろなんて言われたら困る」 日比は嘆息した。 「どれだけ白帆さんのことが好きなんですか」 「世界一に決まっているだろう」 腹水を抜いて消耗しているはずなのに、その笑顔は力強く輝いていた。  白帆は看護婦に呼び込まれるなり駆け込んで来た。医者への挨拶より何より先に舟而の手を握る。 「先生」 「白帆、何て顔をしてるんだい。ここは病院なんだから、大丈夫に決まってるじゃないか。日比君のお知り合いだそうだよ、僕にも丁寧にしてくださった。挨拶をおし」 言い聞かせられて、ようやく白帆はお世話様でございますと挨拶をした。 「今は体力が落ちています。まずは入院して、何日かに一度腹水を抜く応急処置をしながら、食べたいものを何でも食べて、体力をつけることが最優先です。体力がついたら、手術をしましょう」 白帆は素直に頷いた。しかし舟而は口を開いた。 「入院せず、家に帰ってはいけませんか。食べて養生するだけなら、自宅のほうが気持ちが楽です。近所の医者に往診に来てもらって、腹水を抜いてもらうのでは、いけないでしょうか」 白帆の手を握り返しながら舟而は言った。教授は駄目とは言わず、許可を出した。 「紹介状を書きましょう。往診で使える道具は限られているから、それ以上の手当てが必要なときは入院してもらいますが、いいですか」 舟而は頷いた。  客間を病室にして寝付いた舟而の甘えとわがままは控え目なものだった。 「白帆が作る焼きおにぎりが食べたい」 「背中をさすってくれないか」 「手をつないでいてくれ」 白帆のほうが躍起になって、食が細っていく舟而に果物の汁を搾って飲ませたり、鰻を刻んで食べさせたり、寺や神社でお札を授かってきたりした。  舟而は眠る時間が少しずつ長くなって、ときには覚めても夢うつつだったりした。  白帆は舟而の傍らにいて、その寝顔を眺めながら、一日の大半を過ごしていた。日比も看病を手伝って泊まり込んで、部屋の隅に衝立を置いて控えていて、昼間は白帆が、夜は日比が付き添うと決めていた。  夜、白帆は舟而の隣に布団を敷くと、覚めていた舟而に赤いリボンを取り出して見せた。 「ねぇ、先生。このリボンを覚えていらっしゃいます?」 舟而は片頬を上げた。 「僕が間違えたケーキのリボンだ」 「さよですよ。私の誕生日がクリスマスだからって、クリスマスケーキと誕生日ケーキを取り違えて買ってらして。私、根深いからとっておいたんです」  白帆は切れ長な目をいたずらっぽく細める。 「お前さんは、箱でもリボンでも包装紙でも、何でも押し入れにとっておくじゃないか」 舟而は布団から手を出して、白帆の膝を叩く振りで手を置いた。 「だって、捨てるの勿体無いんですもの」 白帆は膝に置かれた舟而の手へ自分の手を重ね、白くて細い指をじゃれつかせる。舟而は笑ってその指の相手をし、自分の指に絡みつかせて落ち着けた。 「押し入れに幅をきかせて、ほかの物が入らないのと、どっちが勿体無いかね」 「あら、お言葉ですこと。その割には、すぐ『白帆、リボンはないか』、『このくらいの適当な箱はないか』、『本をカヴァーするくらいの包装紙はないか』ってお訊きになる癖に」 口喧嘩の内容を、睦言のように甘く口にしながら、二人は見つめ合っていた。 「あると知っていたら、あてにするさ。だって、お前さんは用意がいいんだもの」 舟而は白帆の手首を掴んで引き寄せると、そっと白帆の頬に唇を触れさせた。白帆は素直に受けて、自分もまた舟而の頬へ唇を触れさせていた。  ふうっと溜息をつき、目を閉じる舟而に、白帆は布団を直してやりながら提案した。 「ねぇ、先生。このリボンを先生の手首と、私の手首に結びましょ。夜中に御用があったらちょいと手首を動かして、私を起こしてくださいな」 「名案だな」 舟而は目を閉じたまま答えた。 「しかも赤くて、運命の赤い糸に結ばれてるみたいで、ロマンチックだと思いません?」 「ああ、とてもいい……」  すうっと舟而は眠ってしまって、日比が手伝って二人の手首を赤いリボンで結んだ。

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