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視聴覚準備室の果実

「転校生の前で、寝る奴があるかよ……」  窓際から一定の距離を取り、一度外した黒縁の眼鏡を掛け直しながら、嘆息混じりに横山は口を開いた。 「ごめんなさい……。昨日、ちょっと寝るの遅くて。夏休みの宿題、他のも確認してたし」 「そもそも、やってきたのか。今日のところは」 「やってきたよ。解るところはね。てか、あそこの証明難しいじゃん。俺には無理だって。知ってるでしょ。わざと当てたんじゃん、意地悪」 「意地悪じゃない、寝てるからだろ……」 「はいはい、ごめんなさい。怒らないでよ……」  ふうー、と鼻先に掛かった前髪を吹きやり、柚弥は天井を仰いだ。  その様子を苦々しい表情で見遣っていた横山だが、やがて本題と思われる話題を切り出した。 「松原は……」 「え?」 「松原は、大丈夫だろうな……」 「え……? ああ、大丈夫だよ。俺、寝ちゃったけど、別に真似とかしないでしょ。真面目そうだし」 「当たり前だ、そうじゃない。——……まさか、もう妙な真似とか、してないだろうな……」 「は? 何? 妙な真似って」 「……」 「何それ。俺、今日(すっご)いお世話とかしてたのに。ひどいなあ。何なの、妙な真似って」 「何もないなら、それで良い……」 「別に何もしてないし。彼、真面目そうだし、そういうんじゃないでしょ」  柚弥にそう告げられ、自身も納得の答えを返したが、芯から納得できないのか、横山は渋い表情を崩さなかった。  柚弥は唇を尖らせてその様子を眺めていたが、横山がそれ以上口を開かないため、やがてふう、とひそやかな息を零し、窓辺にもたれていた上体をわずかに浮かせた。 「……言いたいの、それだけ?」 「……」 「寝てたのはごめんなさい。宿題はちゃんとやる。解らなかったら誰かに聞く。松原君に、はしない。それで良い?」 「……」 「それで話終わりなら、もう行ってい?」 「……」 「わざわざこんな遠い所まで連れてきて、それで話終わりなの。……残念。久しぶりだから、ちょっとどきどきしてたのに……」 「……、」 「でももう良いよ。それだけみたいだし。お腹空いたし、もう行くね」  そう告げて柚弥は窓辺の桟から離れようとしたが、横山の首許がもう瞳の前にあって、行く手を遮られた。  顔を上げ、唇を動かしかけた頃には、迫る横山に強く体を抱き竦められ、もう一度身体を窓辺に押しつけられた。 「…………先生、……どうしたの」  薄く、艶めいた笑みに(めく)れ上がった唇が天井へ仰向く。柚弥は、横山の背に指を添わせた。 「お昼だよ。早く行った方が良いんじゃん」 「……」 「先生も、お腹空いてるんじゃないの……?」 「……空いてる」 「空いてるのなら、何か食べた方が良いよ……」  可笑しそうに笑う、腕の中の柚弥の肩がふるふると揺れている。  その震えを制圧するように横山は柚弥の肩を掴みさらに力を込めた。 「はあ……」と苦しげな吐息が漏れるも、横山のポロシャツに顔を埋めた柚弥は、睫毛を伏せどこか恍惚な微笑のうちへ漂っている。 「……久しぶり。…………先生の匂い……」  見降ろした柚弥の瞳が開いて、こちらへ上向いた。  ゆらゆらと潤む、美しい刃物で切れ込んだような、外側へ開かれた睫毛に包まれた大きな瞳と、蛇苺のように紅い唇の中心が、 まるで果実のように現実的な空腹と、覚えのある強烈な渇きを思い起こさせ、横山は身内のそれにひどく戦慄した。 「喰べるのは、…………目の前のもの?」  柚弥の囁きが耳元で震え、現実味がなくなっていく。  切羽詰まった表情を見られまいと、横山は柚弥の首筋に顔を埋めた。 「そうだよ」  吐き捨てるような答えとともに、眼鏡が無造作に後ろ手で卓へ置かれ、窓が軋む音が響いた。

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