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知ってる蠱惑

 夏も終わりだというのに、遠くか近くか、耳障りの悪い声で蝉が鳴いている。  かまびすしく鳴いていた鳥は、飽いたように羽ばたいてどこかへ消えた。    心臓の鼓動が、知らぬ間に意識され()り上がってくるように感じる。  あれだけ清涼を覚えていたのに、先程と何も変わらない緑蔭の中、何故なのか、 まるで効力が切れたようにじっとりとした不快感が首元や全身に広がっていく。  僕と向かいあったままの、柚弥は、僕の言葉が空中に吸い込まれてから、一色に染まった緑蔭の中、まるでひとり、幽玄の音のない世界にいる人みたいに、 僕のことを凝視したまま、動かなかった。  僕の言葉を聞いた瞬間、さっと顔の色が変わるのが判った。  ほんの僅かに、瞳が見開かれて睫毛が持ち上がり、そこから、時が止まったかのように動かない。  その幽玄の世界(なか)にいる彼の、彼の唇だけが、他の機能(パーツ)は停止したまま、 やがて蠕動するように動き出し、掠れた言葉を紡ぎ出した。 「…………見たって、」  僕は、冗談とか、軽んじて先程のことを告げたとは思われたくなくて、彼の瞳からずっと逸らさずにいた。 「——……見たの……?」  何を。昨日のこと。全部。 答えることは出来なかった。  ただ、随分遅れてやって来た、「……うん」というくぐもった僕のいらえが、濁った蝉の声が響く緑蔭の中へ埋もれていった。  柚弥の唇が停止し、また、幽玄の世界へと帰って行く。  開いて僕を見つめる瞳は、感情の色を喪くし、まるで義眼のようだった。    僕はその瞳を見て、言ったことを後悔した。ものすごく後悔した。  だけど、どうしたってもう遅い。  言ったことへの代償は、まだ殆ど負ってなんかいないのに。  どれくらいそうしていたのだろう。多分、時間として数分程度の間だったと思う。  だけど、あまりにも僕達の間に流れる沈黙が長く感じられて、押し潰されそうだった。  こんなにも沈黙が、終わりが見えないのが恐ろしくて、重苦しく感じたことは初めてだった。  蝋人形のように、色を喪くしていた柚弥の瞳に、ふっとそれが戻ったような気がした。  睫毛が瞬いて伏せられ、僕に向き直っていた顔が、線を引くようにゆっくりと前へ向いた。  そして、軽く折り曲げた左脚の上に肘を乗せて、頬杖をつき、その姿勢のまま佇んでいる。  (かたち)の良い耳がよく見え、細い鎖を吊るした十字架が、きらと控えめな光を反射させた。  柚弥の横顔は、まるで、問題の答えでも考えているかのような、平素と変わらぬ落ち着いたものに見えた。  血色が戻って来たのには安堵したが、幾分頓着がないようにも見えるその様子に、僕は思わず不安を覚えるほどだった。  ……伝わったのだろうか。先程の顔色の喪くしようは尋常じゃない。伝わっているはずだ。  何より、決して察しの悪い子じゃない。明らかにその逆だ。だけど今の、この様子は……。  穏やかにも見える彼の横顔を見つめながら、そこに少しでも見える感情を掬い取ろうとしたところ、視線を下方から変えぬまま、彼がぽつりと口を開いた。 「——席、替えて貰おうか……」 「え……」 「一番後ろでしょ。やっぱり黒板見えづらいとか言ったら、替えてくれるよ、きっと」 「……いや」 「ちょっと待って。帰りの会終わったら、横山先生に相談する。したら替えて貰えるよ、きっと」 「違……、そうじゃなくって……っ」 「何? もう帰ったら、直ぐにでも替えた方がいい?」 「違う、そういうつもりで、言った訳じゃない……!」 「じゃあどういうつもりで言ったの」  (こえ)が、一段階低くなっていた。  俯けていたからか、長めの前髪が彼の瞳許を覆い、その中のものが見えなくなっていた。  ()ったように上がる、唇だけが見えていた。  ふ、と顔を上げて髪が横に流れて、流線のようにしなった頸のうえ、月のように冴えた横顔が見えた。  音がするように、こちらを向いた。  僕のことを真っ直ぐ捉えながら、これまで、よく見せていたきらきらした大きな瞳は、格段に温度を下げ、濡れるような質感(ひかり)をくゆらせながら、瞳尻の長い睫毛がよく映えるようにほそめられていた。  唇は、漆黒の闇に浮かぶ、はだかで尖った、だけどふんわりと艶のある、半透明の月のように緩んだ曲線をかたちづくっている。    あ、この顔…………。  僕の中の既視感が、また現実味(リアル)な色相と記憶を伴って甦ってくる。  この顔、知ってる。この唇。  この、人の(なか)を見据えてくるような瞳、三日月みたいに、歪な形にひずんだ微笑……。  これは、あの時、夏休みのあの日、初めてこの学校に来て、初めて君に会った時の、 別れ際に見せて、いつまでも僕の頭から消えなかった、あの微笑みだ…………。

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