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第2話

 それが合図だった。すぐに生徒たち全員が、「臭い! 臭いぞ」と騒ぎだした。 「あの破れたオメガ襟を見ろよ、きっとあの襟が臭いんだ」  そんなはずはなかった。古くても毎日ちゃんと洗っているから臭いはずがないのだ。  背中にコツンと何かがぶつかった。  リドルが投げたのだろう。ユリアの足元に羽ペンがコロコロと転がっていく。きっとペンのインクが背中についたに違いない⋯⋯。  ——言い返しちゃダメだ。  文句を言えば、従兄弟のリドルはもっと酷いことをしてくるに決まっている。  リドルは子供のころから威張りやだった。さらにひどくなったのは、舞踏会で王弟殿下にダンスを誘われてからだ。たった一度だけなのに、今ではまるで王族の一員になったかのように振る舞っている。  ユリアは、三歳の時に馬車の事故で両親を亡くした。  従兄弟のリドルの母がユリアの亡くなった母の母親違いの妹なので、幼いユリアを引き取った。優しさからではない、ユリアの財産が欲しかったからだ。  ユリアの両親はユリアにまとまった財産を残してくれていたはずだったが、今では、銀貨の一枚も残っていない⋯⋯。  すべてを従兄弟家族に奪われたのだ。  だが、その証拠はどこにもなかった——。  ユリアの両親は親族をとても信じていたので、自分たちの財産に関する遺言書はもちろんどんな証明書も残していなかったのだ。  従兄弟家族はユリアに、「おまえを育てただけでも大変だったのに、魔術学園にまで通わせてやっているのだから感謝しろ」と恩を売ってくる。そしてユリアが五歳になるかならないかのころから、屋敷の掃除や洗濯仕事をユリアにさせていた。  使用人たちは「あの子は貴族なんだろう? こんなことをさせていいのかい?」「両親が大きな借金を残したんだそうだよ、それをこのお屋敷の旦那さまと奥さまが肩代わりしてくださったそうなんだ。働くのは当然さ」などとコソコソと話し、ユリアと距離を置いている。  従兄弟家族はもちろん、使用人たちにも味方はいない。  ユリアはいつもひとりぼっちだ。  それに使用人には休みがあるが、ユリアにはその休みの日すらない。365日ずっと朝早くから夜遅くまで働き続けている。  これがユリアが由緒ある貴族の令息なのにみすぼらしい姿をしている理由だった——。 「おい、ユリア! 朝の挨拶がまだだぞ」  まるで王が家来に言うような口調で従兄弟のリドルが言った。  ユリアは慌てた。最近ではリドルに声をかけられただけで息苦しくなってしまう。 「お⋯⋯、おはようございます、⋯⋯みなさま」  急いで膝を折って礼をした。  クラスメートたちがニヤニヤと笑いだす。 「もっと深く頭を下げろよ、それじゃあ、足りないぞ!」 「は、はい⋯⋯」  両膝が床につくほど低い姿勢になって礼を繰り返した。床をじっと見つめながら耐え続ける。  ——我慢しよう。そうすれば虐めはいつか終わる⋯⋯。  叔母はいつも、「もしもおまえがリドルの邪魔になるようならば魔術学園には通わせないわよ」と言っている。つまり、もしここでユリアがリドルに反抗すれば、魔法学園には二度と通えなくなってしまうのだ。  今のユリアにとって『魔術を学べる』ことだけが心の支えなのだ。たとえ苛められても⋯⋯。  だから反抗することは絶対にできないし、なによりリドルたちが集団でからかってくるので、反抗しようにも太刀打ちできない⋯⋯。  リドルもそれがわかっているのだろう。小さなきっかけを見つけてはユリアを虐めつづける。  ——もしも父上と母上の財産の証明書があったらきっと違った。きっと、すべてが違った⋯⋯。  ユリアはギュッと唇を噛みながらそう思った。  ユリアの両親がユリアに財産を残したということを証明する書類がもしもあったならば、従兄弟家族の横領を告発することができたはずだ。だけど証拠となるものがなにひとつないので、ユリアにはなにもできないのだ。  屈辱的な礼がやっと終わると、ユリアはのろのろと教室の後ろへ向かった。  クラスメートたちはまだ笑っている。なにか含みがあるような笑い方だ。  ——なにを笑っているんだろう?  嫌な予感がした。  そして——。 「あっ!」  思わず小さく叫んだ。  ユリアの椅子に黒いリボンを巻いた白い花束が置いてあるではないか!  葬式に使う死者を弔う花束だ。 「ユリアのやつ、とうとう死んじゃったんだなあ!」 「かわいそうに!」 「さあ、葬式を始めよう!」  葬式ごっこ——。  クラスメートたちのくすくす笑いはこのせいだったのだ。 「ユリアの葬式だ!」  からかいの声がどんどん大きくなっていき、教室中に「ユリアの葬式だ!」という大合唱が響いた。  ——僕の、⋯⋯葬式?  心を殴られたようだった。すごく痛い。苦しい⋯⋯。 「葬式だ!」 「ユリアの葬式だ!」  生徒たちの声が一段と大きくなったとき、教室の扉が開いた。 「ごきげんよう、生徒諸君——」  ロイド教授だ。かなり小柄な若いベータの教授で、黒いマント型の教授服を着ている。 「何を騒いでいるのですか?」  教授は首を伸ばしてユリアの方を見た。  ——ああ、よかった。きっと教授が叱ってくれる。  そう思ってホッとした。  だけどそれは違ったのだ。 「じゅ⋯⋯、授業を始めますよ⋯⋯」  教授は椅子に座わると何事もなかったかのように分厚い魔法書を広げた。ボソボソとした声で話す。 「⋯⋯今日の午後は、学部長がティーパーティをお開きになるそうですよ。⋯⋯素敵なゲストがいらっしゃるそうです。少し早めに授業を終わらせましょうか?」 「学部長のティーパーティですか? じゃあ僕、着替えをするために屋敷に帰らなければ! ロイド教授、きょうの授業は休みにしてください!」  従兄弟のリドルが命令するような口調で言った。リドルは王弟にダンスに誘われてからまるでオメガ王妃のように振る舞う。 「そ、そうですね⋯⋯。ではこれで⋯⋯」 「さあ急いで帰ろう!」  リドルが教室から飛び出した。取り巻きの生徒たちも後を追いかけていく。  ロイド教授も出ていって、教室にはユリアと白い花だけが残された。  ——僕の葬式の花⋯⋯。  ものすごく悲しかった。  体が透明になって消えてしまうんじゃないかと思えるほど、悲しかった⋯⋯。 続く

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