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第3話
「ティーパーティに行きたくないな⋯⋯」
ユリアはトボトボと学園の一階の廊下を歩いていた。
生徒たちはみんなティーパーティーに行っているので、廊下に残っているのはユリアだけだ。
ティーパーティは魔法学園の中庭で開催されている。薔薇が咲き乱れる美しい庭だ。
廊下の奥のほうからパーティに集まった人々の明るい声がかすかに聞こえてくる。ユリアのいる石畳の廊下だけがシーンと静まり返っている。
「行きたくないなあ⋯⋯」
着ていく服も持っていないし、リドルたちの意地悪も怖いのだ。
だけど学長が主催するティーパーティなので生徒たちは全員出席しないといけないのだ。
「嫌だな⋯⋯」
大きなため息をつき、足取りは重い。
春の明るい日差しが窓から差し込んでいたけど、心の中はちっとも明るくはならない。分厚いカーテンを閉めた部屋のように真っ暗だ。
「嫌だなあ⋯⋯」
また大きなため息をついた。
と——。
そのとき——。
「結婚してくれないか?」
後ろから声が聞こえた。
「え?」
驚いて振り向いて、もっと驚いた。
——ヴィクトル・シードロフ騎士団長?
見上げるほど背が高くてがっしりとした体格の美丈夫がすぐそばに立っているではないか!
最高級の漆黒のベルベットで仕立てられたフロックコート。その服の上からでもしなやかで力強い胸の筋肉がはっきりとわかる。
たくましくて分厚い胸が手を伸ばせば触れるほど近くにある。
金色の長く美しい髪が、広い肩に流れるように落ちていて、窓から入ってくる優しい春の風にふわりと揺れている。
そしてその金色の髪に縁取られた顔は⋯⋯。
——なんて完璧な目鼻立ちなんだろう、眉も鼻筋もまるで最高級の芸術作品みたいだ⋯⋯。
まっすぐな鼻筋に引き締まった口元。切れ長の目に、繊細だが男らしく力強い顎のライン。
ユリアはボーッと見惚れていたが、すぐに真っ赤になった。
——ヴィクトル・シードロフ騎士団長が僕に「結婚してほしい」なんておっしゃるはずがないのに、なんて恥ずかしい聞き間違いをしてしまったんだろう!
騎士団長の美しい顔がじっと自分を見下ろしているせいで緊張がどんどん高まっていた。いつの間にか手のひらは汗でびっしょりだ。
ドキドキしながらなんとか頑張って声を出し、おずおずと聞いた。
「あの⋯⋯、なにかご用でしょうか?」
「俺と契約結婚をしてほしい——」
「はい?」
あまりにもびっくりしたので変な声が出てしまう。ますます真っ赤になって、「えっと⋯⋯、あの⋯⋯」と意味のない言葉を繰り返す。
——契約結婚? どういう意味だろう?
わけがわからなかった。
騎士団長はずっとこっちを見つめている。
なぜか騎士団長も驚いたような表情だ。
ヴィクトル騎士団長の瞳の色が、『世にも美しいライラック色』だというのは有名だった。けれどもあまりにも長く密集したまつ毛の影になっているせいで、普段は深い紫色の瞳に見えているらしい⋯⋯。
そしてこの時——。
——あ! 本当にライラック色だ! なんて柔らかくて優しい色なんだろう⋯⋯。
騎士団長が驚いたように目を見開いているので、その美しいライラック色が、ユリアにはっきりとわかった。
精巧に作られた人形の瞳のようだった。ゴージャスで、同時にとても清らかな瞳だ。
魅入られてしまいそうだ⋯⋯。
魂を吸い取られてしまいそうだ⋯⋯。
うっとりするほど気持ちがよくて、脚の力が抜け廊下に座り込みそうになったとき、ハッとして現実に戻った。勇気を出して聞いてみる。
「あの⋯⋯、契約結婚⋯⋯とおっしゃいましたか?」
「——そうだ」
騎士団長は軽く咳払いをしてから、魅力的な低く甘い声で話しを続けた。
「いきなり不躾な申し出をしてしまってほんとうに悪かった。つまり——、俺が言いたいのは——、あなたと偽りの結婚をしたいということだ。名乗り忘れたが、俺の名前はヴィクトル・シードロフ。騎士団の最高司令官をしている」
「も⋯⋯、もちろん、存じ上げております」
ヴィクトル・シードロフを知らない者がこの国にいるはずはない。
「実は、俺はオメガ妻を娶る気は一切ない。騎士団の仕事にこの身を捧げているからだ。生涯独身のつもりだったが、母が俺の結婚を強く願っている。最近では次々に見合い相手を送り込んでくるせいで任務に支障が出ている。それで解決策として偽装結婚をすることにした。——突然で驚いただろうが、俺の偽りの妻になってくれないか?」
「えっと⋯⋯、でも⋯⋯。あの⋯⋯、どうして僕なんですか?」
「それはつまり——、失礼ながらはっきりと言わせてもらうと、そなたは家柄はいいが貧しいオメガ令息だからだ」
「貧しい⋯⋯」
「すまない。気を悪くさせたな」
「いえ、ほんとうのことですから⋯⋯」
たしかにユリアは貧しい。そしてできることならば今の状況から抜け出したいと思っている。
騎士団長の偽装結婚の相手にちょうどいい条件を兼ね備えているわけだ。
「どうだろう? 考えてくれないか?」
「でも、僕は⋯⋯」
あまりに突然の申し出に頭の中は大混乱だ。
——騎士団長と僕が偽装結婚?
うつむいて足元を見つめながら、必死で考えをまとめようとしていると、
「俺が相手では嫌か?」
ものすごく近くから声がした。
——え?
驚いて顔を上げる。
——え、えー!
息がかかるほどすぐそばに騎士団長の美しい顔があるではないか!
騎士団長は軽く背を曲げてユリアの顔を覗き込んでいたのだ。
「うわっ!」
思わず声が出た。その拍子に後ろに倒れそうになってしまう。
「危ない——」
騎士団長の手がサッと背中にまわって支えてくれた。
ふたりの顔がますます近づく。
「俺のオメガ妻になって欲しい——」
「妻?」
「いや——、つまり偽りの妻になってほしいという意味だ。嘘とはいえ、俺の妻の立場になるのは不服か?」
「不服などと、とんでもありません」
騎士団長の妻の立場を不服だと思う者はいないだろう。
たとえそれがお飾りの妻であったとしても⋯⋯。
「では了承してくれるな」
騎士団長はユリアの背中を支えていた腕をそっと離して、ものすごく嬉しそうににっこりと笑った。
真っ暗だったユリアの心の隅々までパッと明るくなるような暖かくて美しい微笑みだ。
従兄弟家族との生活は辛いし、魔法学園に通えるのもあと少し。卒業すればただひたすら従兄弟家族に仕える生活が待っているだけだった。わずかな希望も未来にはない。
騎士団長の申し出は願ってもない助け舟に思えた。
だけどあまりにも突然で答えを出せない。
そのとき、ユリアの頭の中に、『契約書』のことが浮かんだ。
——そうだ! 父上と母上は契約書や遺言書を残さなかったからこんな状況になってしまったたんだ。自分の身を守るのに大事なのは、正式な契約書だ!
可愛い唇をキュッと引き結んで、ユリアはもう一度勇気を出して聞いてみた。
「あの⋯⋯、この契約結婚には、契約書がありますか?」
「契約書?」
ヴィクトル騎士団長は少し驚いたようだった。形のいい眉がキュッと上がる。だけどすぐにまた暖かく微笑んで大きくうなずいた。
「もちろんだ、正式な契約書を作ろう」
そして右手をユリアの前に差し出した。
「ユリア・ニキーチェ殿——。我が妻になっていただけますか?」
「え?」
——我が妻?
胸の鼓動がドクンと大きく跳ね上がる。これではまるで本当に求婚されているようではないか?
——ダメだ、ダメだ! 勘違いしちゃダメだ! これは契約結婚なんだから。
慌てて自分に言い聞かせ、騎士団長の手の上に自分の手を重ねた。
「は、はい⋯⋯、不束者ですがどうぞよろしくお願いいたします⋯⋯」
続く
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